続き

家の鍵を開けて、私はよろりとソファに寝転がった。奮発して買ったふかふかのソファは、私をおおらかに抱きとめてくれる。今日も仕事が大変だった。疲労感で眠たくなってくる。私の仕事は事務という名の雑用だ。雑用だから社員たちに時々無理な仕事を押し付けられる。私は困りながらもなんとか役目を果たすよう努めている。それもこれも父親のコネで入った会社なので、クビにならないよう頑張らないといけない。そしてその会社は、幕府の末端である組織の一部だった。このことは絶対にあの人には言えない――。
「お、帰ったか、ナマエ
がら、と窓が開いて当の本人が入ってきた。ヅラ子として初めて会ってから、私達の仲は深まり、今ではこうして夜に桂さんが私の家にやってくるようになった。のろのろとだるい身体を起こす。
「……桂さん」
「今日も疲れているようだな。どれ、俺が夕餉を作ってやろう」
「そんな、いつもいつも悪いです……!」
立ち上がろうとするも、桂さんに制されてしまった。
「俺がしたくてしてる事だ、ナマエは寝てていい」
そう優しく言われてしまうと、言葉に甘えたくなってしまう。ソファに座り込んだ私を見て、桂さんはエプロンと髪を結びキッチンに立った。とんとんとんと心地いいリズムが聞こえてくる。桂さんは器用で料理上手だ。彼の作る料理は美味しく、初めて食べた時は驚いたものだ。キッチンに立つ彼の後ろ姿を見る。長い髪は艶やかだけれど、首や体の線の太さから男性だと一目でわかる。桂さんは男らしい、侍の心を持った、芯の強い人だ。好きだなあ、とぼんやり見ているうちに料理が出来上がったようだった。
「さ、桂特製野菜炒めだ。たんと食べろ」
ご飯と味噌汁も添えて、お膳で持ってきてくれた。桂さんも自分の分をテーブルに置き、私もテーブルに着く。
「ありがとうございます……いただきます」
「いただきます」
共に両手を合わせて言い、箸を持って野菜炒めに手をつける。朝のうちにご飯を炊いておいてよかった。さもなければ桂さんは蕎麦を打ってしまうから(桂さんは蕎麦が大好きで、自分でも作ろうとしてしまう)。
「美味しい……」
「そうか、よかった!」
桂さんはもぐもぐしながら笑った。いつも言っている言葉なのに、桂さんはいつも新鮮に喜ぶ。私はそんな桂さんが好きだ。
二人で今日は会合でこんな話が上がった、とか、仕事がどうだった、とか話している間に食べ終わる。ごちそうさまと挨拶して、私はお盆で食器を運んだ。
「皿洗いも俺がやる」
「いえ、私やります。十分休んだし、桂さんのご飯で回復したので」
「いや、最後まで全うするのが侍だ。俺がやる」
桂さんは頑固だ。こうと決めたら譲らない。私は折衷案を持ちかけた。
「じゃあ、皿洗いは桂さんが、拭くのは私がやるのはどうでしょう?」
「おお、それでいこう」
初めての共同作業だな、と桂さんは何やら照れている。私もそんな彼に当てられて、なんだか照れくさくなってしまった。せっかく桂さんと二人なのに、無言で作業が終わってしまった。
いつもなら夕飯が済んだら出ていく桂さんだったけれど、今日は私のいたソファにどっかりと座る。改まった雰囲気にどきどきしながらも、「ここに座れ」と隣を指され、言われた通りに腰を下ろした。
「……ナマエ、俺に何か、隠し事をしてないか?」
「!?」
びくりと体が強ばる。桂さんは「やはりな」と楽しげに微笑んだ。
ナマエは幕府の息のかかった会社に勤めているだろう?」
「な、なんでそれを……?」
ナマエのことなら何でも知っている。攘夷志士を舐めるでない」
「いつから知ってたんですか?」
ナマエと初めて会ってからだ。すぐに貴殿のことを調べさせてもらった」
「ごめんなさい、今まで言わなくて……」
「謝るな。ナマエは何も悪くない……ナマエは俺が好きか?」
唐突な言葉にぱっと顔を上げる。桂さんは真剣な表情をしていた。
ナマエが未だに俺に敬語なのは、自分が幕府側の人間だから、俺と線を引いているのかと思ってな……」
「ち、違います……!!」
私は正直に言った。
「確かにそれも少しはありますが……私、桂さんより年下で、まだ距離感がつかめなくて、敬語になっちゃうんです。本当はタメ口で話したいし、桂さんじゃなくて、名前で呼びたいんです……!」
桂さんは「ほう」と驚いたように瞬きした後、ふっと笑った。
「距離感が掴めないのなら、ここで一気に縮めてみるとするか」
そう言って、桂さんが大きな手で私の頬を撫でた。心臓がばくばくとうるさい。桂さんは今まで見たことのない目をしていた。優しげな、愛おしげな、それでいて野性的な。みるみるうちに距離が縮まり、私は目を瞑った。そして、唇に柔らかい感触。そっと目を開けると、桂さんは「やっと接吻ができたな」と微笑んだ。顔が熱くなって俯く。キスをした。今、桂さんとキスをしたのだ。
ふと手が伸びてきて、私は抱きしめられる。
「そんなに赤くなって……可愛らしいな」
ますます顔に熱が集まる。余裕を見せている桂さんが憎らしくなり、私は思い切ってその頬にキスをした。「な!」と桂さんは驚き、それから顔が赤くなった。
「こ、小太郎さんだって、赤くなってるじゃない……」
「これは部屋が暑いからだ!」
断固として認めない彼に笑う。頑固でまっすぐな小太郎さんが好きだ。私が幕府の末端で働いていることはどうだっていい。私の気持ちは本物だし、彼だって私を好きでいてくれる。小太郎さんの腕の中にいる限り、それは本当に些細なことのように思えた。