春が来るのはあなたのせいです
一
窓を開ければ春の匂いがした。長い冬の終わり。芽吹き出した緑の香り。私は身体中に染み込ませるようにそれを吸い込んで、大きく吐いた。今日もいい天気だ。春らしく多くの雲が蔓延っているけれど。私はするりとたすき掛けをして、やる気を出した。こんな日は掃除をするに限る。
まずはどこから手をつけようか、と部屋を見回していると、つけっぱなしにしていたテレビから耳障りの良い声が聞こえてきた。
「しっかりキャメラにおさめておけ、攘夷志士の生き様を」
長髪のその男性は、花野アナを脇に抱えながら屋根を走っている。後ろには真選組。どうやらこの人は攘夷志士のようだ。お尋ね者がなぜテレビに出ているのか。そんな疑問が過ぎったけれど、私は深く考えず画面を見つめた。男性は真選組の攻撃によって、屋根から落ちる間際、花野アナを上に投げた。花野アナは屋根に上がり、男性は下に落ちていく。真選組は追撃しようとして、できなかった。男性はよくわからない生き物と共に、ちょうど走ってきた軽トラへ着地したからだ。
「バイビー」
ぴっと手を翳し、真選組を馬鹿にするような仕草をする。長い黒髪が風に舞い、男性の端正な顔が映し出される。
「かっ……!」
かっこいい。私の心は彼に撃ち抜かれてしまった。ぎゅうと締め付けられる胸を抑えながら、がくりと膝を着く。春と言えば桜。春と言えば入学式。春と言えば――恋の季節。
まずは男性の名前を知るため、私は真選組を訪れることにした。
「ごめんくださーい」
門の外からそっと声をかけてみる。ちょうど中庭にいた隊員が出てきた。
「はい、何の御用でしょう……?」
「あの、昨日テレビでご活躍を拝見したのですが、皆様が追ってらっしゃった方は何というお方なのでしょう?」
「それを知ってどうするつもりでィ」
もう一人の隊員が門へと出てきた。その少年らしい幼い面影は見覚えがある。男性を追っていた隊員だ。
「っていうか、最後にテレビで花野アナが名前紹介してたでしょう。見てなかったんで?」
「そうだったんですね、ごめんなさい、うっかり見落としておりました……」
どきどきする心臓を抑えることに必死で、最後まで見れなかった。「フン」とその隊員は鼻を鳴らすと、最初に来てくれた隊員に言った。
「手配書持ってこい」
「はい!」
隊員は即座に去っていった。驚いた。この隊員は彼より明らかに年下だと言うのに、偉い立場なのだろうか。無意識に目の前の隊員を見ていたらしく、彼は眉を寄せて言った。
「……何でィ、人の顔まじまじと見やがって」
「ああ、いえ……綺麗な顔してるなあと思っただけです」
嘘ではなかった。少年は整った顔をにやりと歪めると、私の顎を掴んだ。
「!?」
「アンタも別嬪でさァ……こういう綺麗な顔見ると醜く歪めたくなりまさァ」
この少年は内面がひどく歪んでいるらしい。人は見かけによらないなあとぼんやり考えていると、もう一人の隊員が戻ってきた。
「なっ、何してるんですか沖田さん!?」
「あ? ちょっとな」
隊員――沖田さんの手が離れた。結構強い力で掴まれていたからか、顎が少しひりひりする。
「これ、手配書です!」
隊員から渡された手配書を、沖田さんは私に渡した。
「攘夷志士、桂小太郎でさァ。見かけたら通報よろしく」
私は手配書に載っている写真と目を合わさないようにしながら、受け取った。
「……ありがとうございます」
「ついでにアンタの名前教えてもらっていいかィ? 俺は沖田、沖田総悟でさァ」
「苗字ナマエと申します」
「ナマエ、ね。覚えときまさァ」
ひらりと手を振って、沖田さんは去っていった。私はもう一人の隊員にも礼を言って、その場を後にした。名前が知りたくて真選組を訪ねたけれど、あんな曲者がいるとは思わなかった。警察はこわい。
もう行かないようにしようと思いながら、もらった手配書を念の為持ってきていたクリアファイルに入れて、鞄にしまい込んだ。まだ写真と目を合わせる覚悟はできていなかった。
私の職場はかぶき町にあるレストラン、バトルロイヤルホストだ。今日は午後からシフトが入っていたから、真選組からの帰りに出勤した。春だからか、学生さんが多くてんてこ舞いだ。忙しい中でも、私の頭の隅には、ロッカーのカバンの中にある手配書があった。桂小太郎さん。なんて素敵な名前なのだろう。侍らしい名前だ。桂さんはかぶき町にも来るのだろうか――。
「ちょ、ナマエちゃんんんんん !?」
銀さんの声にハッとする。銀さんのチョコレートパフェに、無意識にドバドバとタバスコを掛けていた。
「まあ、ごめんなさい、私ったら……」
「どこの姉さんかと思ったよ……なんかぼーっとしてんなァ」
よかったら話聞くけど、と銀さんはテーブルに肘をつく。この人は坂田銀時さん。万事屋さんを営む、頼りになるお方だ。顔を合わせるうちに仲良くなり、今ではたまに万事屋に顔を出して夕飯を作ってあげたりしている。銀さんになら言ってもいいかもしれない。私はふうと心を落ち着かせて、銀さんの向かいに座った。
「銀さん……桂小太郎さんって知ってる?」
「ヅラ!? 知ってるも何もアイツとは腐れ縁っつーか……」
さすがは銀さんだ。顔が広い。
「知ってるのね! あの、私、その……」
誰にも話していない恋心を打ち明けるのは、こんなに勇気がいるものなのか。顔に熱が集まる私とは反対に、銀さんの顔は心なしか青くなってきている。
「おい、まさか、ナマエちゃん……」
「桂さんに、恋してしまったの……!」
「ハァァァァァ!?」
そんな馬鹿な、よりによってヅラかよ、とか銀さんは何やらブツブツ言っている。
「いや、待てよ、ヅラの馬鹿さを見たら幻滅するかもしれねェ……ナマエちゃん、ヅラのことは何で知ったんだ?」
「テレビで」
「なら勝機はあるな……ナマエちゃん、仕事終わったらうちに来い」
「えっ?」
「ヅラに会わせてやるよ」
そんな心の準備が、と言いかけて、口を閉じた。よく考えればこんなチャンスは二度とない。攘夷志士との関わりはレストランくらいでしかない。頷いた私に、銀さんは不敵に――沖田さんのように――笑った。
仕事が終わった頃にはどっぷり日が暮れていた。お疲れ様でしたと挨拶して、万事屋へと歩く。夜気が肌に柔らかく、心地いい。桂さんを呼ぶと言っていたけれど、本当だろうか。でも銀さんはそんな嘘をつくような人ではない。手配書さえも目を合わせられないのに、会ってしまったら、私はどうなるだろう。
スナックお登勢の横の階段を上がった時、からりと万事屋の戸が開いた。ぱっとそちらを見ると、そこには長髪の男性がいた。目が合い、彼は照れたように言った。
「お、おかえり……」
私は意識を手放した。
はっと目が覚めて、まず銀さんの顔が見えた。
「おっ、大丈夫か?」
「銀さん、私……」
半身を起こす。私は布団の中にいた。
「ヅラに会って気ィ失ってたんだぜ、みんな心配してたけど帰ったよ。この様子じゃ大丈夫そうだな」
「ごめんなさい……」
頭を抱える。一生に一度かもしれないチャンスを、私は逃してしまった。まさか彼のきらきらオーラにやられて失神するとは思わなかった。
「まさか気失うほどヅラのこと好きだったとはな……」
「ナマエ、起きたアルか?」
襖が開き、パジャマを着た神楽ちゃんが入ってきた。
「大丈夫か、ナマエ?」
「うん、大丈夫」
「今日はもう遅いから、ここ泊まってけ」
「でも……」
「いいから」
「銀ちゃんとは違う部屋で寝るから大丈夫ヨ。私と同じ部屋ネ。もしこの野郎がナマエを襲ったらすぐ助けるヨ」
「襲わねーよバカヤロー」
私は言葉に甘えて泊まることにした。幸いにも明日は休みだった。神楽ちゃんとパジャマパーティーして(パジャマは銀さんが貸してくれた)、眠りについた。
二
次の日はせめてものお礼にと、早めに起きて朝ごはんを作った。銀さんも神楽ちゃんもこれには喜んでくれた。
「やっぱりナマエの料理は美味しいネ!」
「あァ、いい嫁さんになるわ」
「……銀ちゃんそれセクハラアル」
「えっ、そうなの!?」
「ふふ、美味しいならよかった」
笑っていると玄関が開いた。
「おはようございます……あ、ナマエさん、大丈夫になったんですね」
「おはよう、新八くん。心配かけてごめんね、朝ごはん食べた?」
「ああ、いえ、お構いなく。食べてきましたので」
朝ごはんが終わり、私は皆の邪魔になるからと万事屋を後にした。今日の天気は重苦しい曇り空だった。帰り道、カバンからクリアファイルを取り出す。また会って気絶することだけは回避しなければ。歩きながら手配書の写真と目を合わせる。昨日本物と対峙しただけあって、心臓が跳ねたくらいで済んだ。見つめていると、本当に整った顔をしていることに気づく。切れ長の目、通った鼻筋、薄い唇。どきどきと鼓動が脈打つ。いけない、もっと耐性を作らないと――。
「かーつらー!!」
「きゃっ!?」
手配書を見て歩いていたため、周りに気づかなかった。急に真選組にバズーカを向けられる。終わったと目を閉じたところで体が浮いた。誰かに抱き抱えられている。
「あろうことか一般人にもバズーカを向けるとは、真選組も腐った連中だなァ!」
桂さんだった。彼は私を俵抱きしたまま屋根へ登り、すさまじい速さで駆け抜けている。
「ナマエ殿、無事か?」
「桂さん、ありがとうございます……!」
「お、あれはナマエじゃねェかィ。どーもきな臭ェと思ってた」
後ろを追う沖田さんが言う。
「なんだ、知り合いなのか?」
「はい」
「そうなると厄介だな……もう少し俺に付き合うことになるがいいか?」
「どこまでも、お供致します……!」
その言葉は本心だった。桂さんと一緒なら、どこまでもついていける。彼の目指す日本の夜明けまで、お供する覚悟だった。
逃走劇はしばらく続き、今は真選組の足音も聞こえなくなった。一歩入った路地裏から桂さんが顔を出して周りを伺う。
「……撒いたようだな」
その隣にしゃがむ私の心臓は、ばくばくと音を鳴らしていた。たぶん走ったことによるものではなく、桂さんとの距離が近いせいで。今まで桂さんに体を担ぎあげられていたこともあり、落ち着いた今、意識してしまう。
「大丈夫か?」
桂さんが心配そうな顔をしてくれている。私は目を合わせるのに精一杯で、頷きを返すことしかできなかった。桂さんは眦を緩めて、「ならいい」と呟き立ち上がった。
「俺は集会に行くが……ナマエ殿はどうする?」
「私は……ちょっと定食屋にでも」
少し走ったこともあってお腹が減っていたし、桂さんとランデブーしたこんな素晴らしい日に、家にこもっては勿体ない気がした。立ち上がりながら言うと、桂さんは頷いた。
「ああ、そろそろ昼時だからな。ではまた――なんだ?」
立ち去ろうとする桂さんの袖を、反射的にそっと掴んでしまった。振り返って不思議そうな顔をしている桂さんに、私はおずおずと言う。
「あの、絶対、また会いましょう……!」
桂さんは瞬きをして、それから「うむ」と頷いた。
「ああ、絶対会おう」
「今日は、ありがとうございました」
頭を下げると、「いや」と桂さんは言った。
「俺は当たり前のことをしたまでだ。では、またな」
「はい、また」
去っていく桂さんの後ろ姿を見つめる。なんて素敵な人なのだろう。桂さんを知るほどに好きになっていく。こんなことは初めてで、どうしたら桂さんの心を射止められるのか、まったくわからない……そうだ、お妙ちゃんに後で相談してみよう。
夢見心地のまま、近くにあった定食屋に入る。人気なお店らしく、テーブルもカウンターも人で埋まっていた。
「いらっしゃい! おひとり様で?」
「はい」
「じゃあ、こちらで」
案内されたカウンター席に座ると、店員さんがお冷を持ってきてくれた。会釈して壁に貼られたメニューを見る。カツ丼に生姜焼き定食、餃子、麻婆豆腐などなど。
どうしようかな、と考えていると、隣からぶちゅっと何かがひねり出されるような不穏な音がした。思わずそちらを見る。なんとそこには、マヨネーズを丼にかける男性がいた。着流しを着た男性は真顔で、冗談でしょと思うくらいの量のマヨネーズをかけている。
ぽかんと見ていると、男性と目が合った。長い前髪に、切れ長の涼やかな目をした、世間的にはかっこいいとされるような男性だった。
「……何見てんだ?」
低い声に少し萎縮しながらも、答える。
「いえ、マヨネーズお好きなんだなと思って、ただ見てました」
事実を言っただけなのに、男性は「お」となぜか嬉しそうな顔をした。
「お前も食ってみるか?」
どうしてそうなるのかわからず、「ん?」と首を傾げる。
「まだ食ってねェから大丈夫だ」
そういう問題ではないのだけれど。うーん、と迷った挙句、私は食べてみることにした。マヨネーズは好きな方だし、案外いけるかもしれない。
「……じゃあ、少しいただきます」
そう言うと、男性は顔を輝かせた。眩しい。
「おう、いける口じゃねーか。どれ、盛ってやるよ」
男性は取り皿にマヨネーズごはんを盛って、こちらに渡した。私は割り箸を取って、それをひと口食べてみる。圧倒的マヨネーズ感。マヨネーズの味しかしない。やっぱり。
「どうだ?」と男性は口角を上げている。美味しくないなんて言えない。
「……マヨネーズですね、こってりしてます」
「だろ? それがマヨネーズのミソなんだよ」
それから私はマヨネーズ語りに付き合い、よほど気に入られたのか、終いには私の分のごはんも奢っていただいてしまった。
「ご馳走様でした。すみません、奢ってくださって……」
定食屋の軒先を出たところで、頭を下げる。
「いや、なかなかアンタみてーな人いねェからな……名前は?」
「ナマエと申します」
「ナマエな。俺は土方十四郎。これ、名刺だ」
渡された名刺には、「真選組副長」と書かれていた。
「真選組なんですか!」
「そうだ、困ったことがあったらいつでも連絡しろ。じゃあな」
土方さんは颯爽と去っていった。沖田さんといい、土方さんといい、真選組には癖の強い人しかいないのだろうか。あまり関わらないようにしよう。私はどちらかというと桂さん派だ。
そうだ、お妙ちゃんの出勤前に彼女と会わないと。桂さんのことを相談したかった私は道場へと急いだ。志村家のインターホンを押すと、お妙ちゃんが出てきた。
「あら、ナマエちゃんじゃない。どうしたの?」
「あの、ちょっと相談があって」
「まあ、上がって上がって」
お妙ちゃんに居間まで案内される。ハナミズキが咲いているのが、障子越しにわかった。座布団に座って、話を切り出す。
「あのね、あの……好きな人がいるの」
「まあ」とお妙ちゃんは微笑んだ。
「でも私、恋愛なんてしたことないから、どうやって発展させたらいいかわからなくて……」
「可愛らしい相談ですなあ」
「え?」
いつからそこにいたのか、斜め前に男性が座っている。不審者だろうか。唖然としていると、お妙ちゃんがどこからか薙刀を持ってきて、それを男性に刺した。え、刺した?
「話に入ってくんじゃねー、このストーカーが!」
「ぎゃあああああ」
どす、げす、とお妙ちゃんはその男を蹴り、男は逃げていった。
「えっ、ええ……」
何が何だかわからず、呆然としていると、お妙ちゃんが戻ってきた。その顔はいつものにこやかな顔で、私は恐怖を感じた。
「とんだ邪魔が入ったわ……それで、どう進展させたらいいかわからないのね?」
「う、うん……」
「その人の好きな物ってわかる?」
「好きな物……いや、わかんない」
「なら、それを知って、一緒に好きになるのはどう? 相手もすごく嬉しいはずよ、ナマエちゃんを意識してくれるかも」
なるほど!と私は納得した。確かに好きな物が合えば嬉しいし、それが異性なら意識するかもしれない。
「ありがとう、お妙ちゃん! 今度ハーゲンダッツ奢るよ……ところで、今の人誰?」
「近藤さんっていう、真選組の局長さんよ。私のストーカーなの」
「……そうなんだ」
真選組とは一体。
「――こういうわけで、桂さんの好物を教えて欲しいの」
私は早速万事屋を訪れた。向かいに座る銀さんは苦い顔をしているが、桂さんと接点があるのは銀さんしかおらず、彼しか聞ける人がいない。
「ヅラの好物ねぇ……蕎麦とか好きなんじゃねーか? たぶん」
「おお、蕎麦!」
「あとはなんか、気持ち悪い生物引き連れてるな」
「気持ち悪い?」
「エリザベスっていう天人アルヨ。こんなやつネ」
神楽ちゃんが紙に得体のしれない生物を描いてくれた。アヒルのような顔。この生物は確か、テレビでも見たような気がする。
「……でも、桂さん攘夷派なのに天人と仲がいいの?」
「その辺よくわかんねーけどな……神楽とだって仲良いし。天人自体を嫌ってるわけじゃねーと思う。ま、天人人間問わず、悪いことするやつが気に食わねーって考えだろ、たぶん。あいつクソ真面目だから」
なるほど、桂さんは攘夷派といえども、種の違いで区別するような方ではないのだ。なんて素敵な考えだろう。私は胸を押さえた。攘夷志士であっても、そんな柔軟な考え方ができるなんて、桂さんはやはり只者ではない。上に立つ者としての素質を感じる。
「……大丈夫ですか?」
新八くんの心配そうな声に、はっとする。思わずときめいてしまっていた。
「大丈夫……銀さん、桂さんの行きつけの蕎麦屋とか知ってる?」
「いや、知らねーな」
「だよね……」
「とりあえず蕎麦屋を調べていろいろ食べてみるのはどうですか? ナマエさんも蕎麦を好きになるかも……」
そうだ、桂さんに会うのではなく、そもそも桂さんの好物を好きになろうという段階だった。目的を誤ってはいけない。
「そうだね……いろいろ食べてみる! ありがとう、邪魔してごめんね」
「いえ」
「よかったら夕飯食ってくか?」
銀さんに言われて時計を見る。もう夕方だった。
「ううん、家で食べる。二日連続でお世話になるのも悪いし」
「ナマエなら大歓迎ネ!」
「ありがとう、でも今日はやめとく。じゃあね」
三人に手を振り、万事屋の階段を下りる。早速蕎麦屋に行きたいところだったけれど、一日にそんなに外食するのはお金がもったいない気がして、私はスーパーで蕎麦を買って帰った。
ソファに座って、ずずっと蕎麦をすする。桂さんが好きな物、というだけで、蕎麦が桂さんと私を繋ぐ素晴らしい食べ物に思えてくる。こんなに美味しかったっけ。
今日は桂さんと一緒にいれて幸せだったな、と振り返る。彼の美麗な顔や意外とがっしりした体を思い浮かべて、胸がぎゅっと締め付けられる。ああ、好きだ。人を好きになるってこんなに幸福なことなんだ。この気持ちを教えてくれた桂さんに感謝して、明日も桂さんに会えるように祈りながら、その日を過ごした。
三
次の日は朝から仕事が入っていた。モーニングを食べるお客さんをさばくのに忙しかった午前を終えて、晴れ渡る青空の下、どこで食べようかなと街中をうろつく。店長からまかないを食べるか聞かれたけれど、断った。蕎麦屋に行きたかったからだ。
どこがいいかなと歩いていると、向かいから桂さんと不思議な生物がやってくることに気づいた。なんて運がいいのだろう。どきどきしながら話しかける。
「か、桂さん、こんにちは!」
「おお、ナマエ殿、元気か?」
「はい、元気です! こちらが噂のエリザベスさんですか?」
「お、よく知ってるな。エリザベスの可愛さが江戸に伝わっている証拠だ!」
いえ、神楽ちゃんに聞いたんです、と言いたい気持ちを抑えて、エリザベスさんに挨拶する。
「初めまして、エリザベスさん。ナマエと申します」
エリザベスさんは板のプラカードを出した。
『よろしく』
「ナマエ殿とはいろいろ縁があってな、知り合いなんだ」
『そうなんですか』
「よろしくお願いします……桂さんたちは、お昼食べたんですか?」
「まだだ、これから蕎麦を食べに行こうかと」
「蕎麦! 私も蕎麦好きで、これから食べようと思ってました」
アピールすると、桂さんは「ほう」と眉をあげた。
「では一緒に食べるか?」
「えっ、いいんですか?」
「ただ真選組にまた追われる危険はあるがな、それでもよければだが」
「大丈夫です、覚悟はしています」
桂さんを好きになった時から、その覚悟はできていた。桂さんは攘夷志士で、真選組に追われる立場の方。もし、桂さんと一緒に行動するのなら、真選組から目をつけられる可能性がある。もっとも、もう沖田さんは私に目をつけているけれど。
桂さんは私の真剣な答えに少し目を見開いて、それから頷いた。
「……ならば、一緒に行こう」
「はい!」
歩き出した桂さんの後ろについて行く。ふと視線を感じて隣を見れば、エリザベスさんの大きな目と合った。
『……桂さんに惚れてる?』
「ふはっ!」
「どうした?」
私の間抜けな声に桂さんが振り向く。「なんでもないです」と答えて、桂さんが前を向いたのを確認してから、エリザベスさんに頷いた。
『桂さんは手強いよ』
やっぱりそうなんだ。
『でも応援します』
裏返しで出てきた文字に嬉しくなって、ありがとうと小さく呟いた。
やってきたお店は北斗心軒というラーメン屋のようだった。慣れた様子で戸を開ける桂さんの後について、中に入る。
「いらっしゃい……知り合いかい?」
主人らしき女性がこちらを見て言った。綺麗な方だ。
「ああ、ナマエ殿だ。ナマエ殿、こちら幾松殿だ」
「初めまして、ナマエと申します」
「幾松よ……なに、アンタも隅に置けないじゃない」
幾松さんが桂さんに笑うと、桂さんは座りながら「そういう関係ではない」と落ち着いて言った。ばっさり切り捨てられたような気がして、私は勝手に落ち込む。でもわかりきっていたことだ。桂さんの心に私はまだ入り込んでいない。
「蕎麦を三つ」
「はいよ」
幾松さんが目の前の厨房で蕎麦を作っていく。上に貼られたメニューを見ると、やはりここはラーメン屋らしく、醤油ラーメンなどが書かれていた。
「……ここはラーメン屋なんですか?」
「そうだよ、蕎麦を置いたのはこの人が好きだって言うから」
幾松さんが桂さんを指さす。嫌な予感がした。
「この人にはちょっと借りがあってね……それで好物の蕎麦を作るようになったわけ」
「……そうなんですね」
「おかげで幾松殿の蕎麦が食えるようになった、礼を言う」
「どうも」
私の知らないところで、桂さんと幾松さんのドラマがあったのだ。もやもやしていると、幾松さんは微笑んだ。
「……アンタ、可愛いね。私とこの人の間には何もないよ」
「えっ」
顔に出ていただろうか。幾松さんはそれきり何も言わず手を動かした。
「はい、かけ蕎麦三丁」
カウンターに蕎麦が三つ置かれる。礼を言って蕎麦を手前に置き、手を合わせる。
「いただきます」
桂さんと声が揃った。「む」とこちらを見た桂さんに、にっこりと笑う。
「……合いましたね」
「ああ。貴様も手を合わせる派だったか。日本の未来は存外明るいかもしれんな」
桂さんは私をいくつだと思っているのだろう。そりゃあ桂さんよりは歳下だけれど、そんな子供ではない。
うーむ、と考えていると、「蕎麦が伸びるぞ」と言われて箸を持つ。ずず、と啜って頷く。美味しい。
「美味しいです!」
「ありがと」
「これが幾松殿の味だ」
なぜか桂さんは誇らしげだ。私はまたもやもやして、蕎麦を啜る。啜りまくる。
「……ご馳走様でした」
つゆを飲み干して丼を置くと、桂さんが驚いたように言った。
「もう食べたのか? よく噛んで食わなければ消化に悪いぞ」
「ふふ、美味しいのでどんどん食べちゃいました」
自分の中の黒い気持ちを隠すようにへらりと笑う。きっと下手な笑い方だ。その証拠に桂さんは眉根を寄せている。
「……どうした? 随分引きつった笑いじゃないか。まさか幾松殿の蕎麦を美味しいといいつつ、やはり不味かった――げふっ!」
「やはりってなんだ」
どんぶりが桂さんの顔にクリーンヒットした。
「大丈夫ですか!」
桂さんの鼻から血が流れていて、私は慌ててハンカチを取り出す。血を拭おうとした私を、桂さんが手で止めた。
「……大丈夫、よくあることだ。すぐに止まる」
「よ、よくあることなんですか……」
桂さんはどんな日常を送っているのだろう。
「それより、何か悩みでもあるのか? 話なら聞くぞ」
桂さんは蕎麦を食べ終わっていたらしく、箸を置いて腕組みしている。完全に話を聞くスタイルだった。
けれど私は勝手にもやもやしているだけで、恋人でもないのに、それを桂さんに言うのはお門違いも甚だしい。ちらりとエリザベスさんに視線を向けると、首を振られた。そうだよね。
「何でもないです、ただおなかいっぱいで苦しいなと思って」
「そうか、ならいいが……」
『そろそろおいとましましょう』
「うむ、そうだな」
立ち上がり、お会計する。鞄から財布を取り出すと、桂さんは手で制した。
「払わなくていい、ナマエ殿の分も俺が払う」
「ええっ、そんな、悪いです」
「俺の方が歳上だろうし、ここは払わせてくれ」
「あ、ありがとうございます」
桂さんは大人だ。今まで女性にどのくらい奢ってきたのだろう、と考えてしまって、また私の心は深く沈む。
「また来てね」と幾松さんに声をかけられ、私は「はい」と頷いた。なるべく明るい声を装って。
店を出ると、桂さんが言った。
「俺たちは河川敷に行くが、ナマエ殿は?」
「……私は寄るところがあるので、そこに行きます」
「そうか。ではまた」
「はい、ありがとうございました」
桂さんたちに深々と頭を下げて、それからゆっくりと桂さんたちとは反対方向を歩く。寄るところがあるというのは嘘だ。ただこんな気持ちで桂さんと接するのが嫌で、一人になりたくて、嘘をついた。
仕事は午前までだったし、やるべきことはない。恋というのは、楽しいばかりではないのか。こんな醜い感情と向き合わなければならないのか。悶々としながら歩いていると、真選組の制服を着た土方さんとばったり会った。
「お、ナマエか?」
「土方さん……」
「なんか浮かねェ顔してんな」
「……なかなか、上手くいかなくて」
はあ、とため息をつくと、タバコの煙を吐きながら、土方さんは言った。
「……俺でよければ話聞くが。今休憩中だからな」
タバコくせーけど、と道の隅に置かれたスタンド灰皿を顎で指す。ここは喫煙所らしく、周りにもタバコを吸う人の姿があった。
私は少し悩んで、でも頼りになりそうだし、桂さんの名前を出さなければいいのだと思い、話すことにした。
「……好きな人がいて、その人にちょっといい感じの女の人がいるんです。今日その人の存在を知って、もやもやしてしまって……」
「あー……」
そうか、恋愛か、と土方さんは頭を搔く。
「でもナマエが好きな奴とそいつは、付き合ってるわけじゃねーんだろ?」
「はい……」
「なら、気にする事はねェと思うが……まあ、気になっちまうのが惚れた性ってやつか」
「……私、恋愛するの初めてで、自分の中にこんな禍々しい気持ちがあることに驚いたというか……恋って幸せなだけじゃないんですね」
「そりゃあ人間だからな。独占欲なんかも生まれるし、それで嫉妬もする……色恋沙汰の事件も多い」
「そうなんですか……私、自信なくなってきました。あの人は、私のことを異性として見てないし、歳下だからまだ子供だと思われてるのかも」
実際恋愛経験ないですし、と自嘲する。土方さんはタバコを吸いながら目を細めた。
「恋愛経験有り無しは関係ねェ。問題は気持ちだ。お前はそれでも、そいつが好きなんだろ?」
「……はい」
「なら、それを吐き出せばいい。好きだって言っちまえば、そいつは嫌でもお前を意識するだろ」
「えっ、告白するんですか?」
「ああ」と当たり前のように土方さんは頷く。
「話聞いてる限り、そいつは鈍感な野郎みてーだから、たぶん言わねえとわからねェだろ」
「……もし、失敗したら?」
土方さんはふっと笑った。
「失敗がスタートだ。そっからそいつがナマエを意識すれば御の字ってやつだな」
「振られるの覚悟で告白するんですか!」
「振られたくなかったら違うこと聞きゃあいい。何でもいいからアピールしろ」
土方さんはタバコを灰皿に潰した。
「……休憩は終いだ。頑張れよ」
「……ありがとうございます」
手を挙げて去っていった土方さんを見送る。土方さんは今吸い終わったというのに、懐からタバコを取り出して火をつけた。てっきりタバコ休憩だと思ったらただの休憩だったらしい。
それにしても、告白は最後と思っていたけれど、最初にする選択肢もあるのか。目から鱗だった。さすが、いろいろ経験してそうなだけある。
さっき別れたばかりなのに、無性に桂さんに会いたくなって、河川敷へと走り出す。春のあたたかい空気が心地よい。
まだ河川敷にいるだろうか。もしいたら、好きなタイプを聞いてみよう。この気持ちを伝える勇気はない。けれど、土方さんの言う通り、少しはアピールしてもいいかもしれない。それから話すのだ。春の穏やかな陽気のこと、エリザベスさんの可愛さのこと、そして、私のことを。
爽やかな緑の風が吹く。追い風のように私を押してくれているような気がして、微笑んだ。
ああ、願わくば――この初めての恋が成就しますように。