ファントムと召使い
「ナマエ、と申します」
その女性は、突如としてエリックの前に現れた。ゆったりとした椅子に座り、宮殿の設計図に没頭していたエリックは、跪き、深々と頭を下げる若い女に驚きながらも「頭を上げてくれ」と言った。
顔を上げた女性は綺麗な顔立ちをしていた。艶やかな黒髪に同じく黒の大きな瞳、鼻筋は美しい曲線を描いていた。その瞳は自分を恍惚と見つめていて、手品が終わり優しい調べを歌っている時の大衆の視線が思い出された。
「……君は、誰の命令でやってきたんだい?」
エリックは警戒を解かないまま、吸い込まれそうな瞳を見つめて尋ねた。
「太后様でございます。本日より、あなた様の召使いをするよう仰せつかりました」
太后と聞き、エリックの心に苦々しいものが過ぎった。「女を抱いたことはあるか」と先日太后は不躾に尋ねてきた。「邪魔されずに仕事に没頭することを何よりも求める」とエリックは返したが、太后はそれに納得せず、こうして女を寄越してきた訳か。
「悪いが、召使いはいらない。帰ってくれ」
エリックはすげなく言った。ナマエという召使いは、「それはできません」と強い口調で返した。
「太后様の命令は絶対なのです、もしこのまま帰れば私の身はどうなるか……」
ぎゅっと自分の腕をかき抱いたナマエは、よく見ると震えていた。憐憫を感じたエリックは、「わかったよ」と仕方なく頷いた。
「君を召使いとして歓迎しよう……今まで召使いを取ったことがなかったが、君はどういう仕事をするのかね?」
ナマエは顔を輝かせ、はきはきと答えた。
「あなた様のご命令なら、何でも致します」
「何でも、ね……」
太后から遣わされたのなら、文字通り「何でも」してくれるのだろう。エリックは悪戯にこう言った。
「じゃあ、口付けもしてくれるのかい?」
ナマエの頬がみるみるうちに赤くなっていく。そして呟くように言った。
「……いたします」
「ほう!」とエリックは眉を上げた。
「好きでもない男と口付けもできるのか、召使いは」
侮蔑を露わに言えば、ナマエはこちらを見つめ返した。その瞳は強い光を持っていた。
「……好きでもないなど、とんでもございません。私はあなた様に――エリック様に好意を抱いております」
「嘘だ!」とエリックは叫んでいた。母にすら愛されなかった自分に、好意を抱いている? ふざけるにも程がある。
「君は私を馬鹿にしているのか? 私の仮面の下を見ても尚、そんなことが言えるのか?」
ナマエはエリックとは反対に冷静だった。
「馬鹿になどしておりません。あなた様の優雅な手先や耳に優しく響くそのお声に、恋をしてしまいました……その仮面を脱いだお姿は拝見しておりませんが……」
「なら見るといい!」
エリックは仮面を剥いだ。ナマエは一瞬驚きはしたが、目を逸らしたり恐怖に慄くことはなく、ただエリックの両目を見つめていた。それもうっとりと、慈しむような眼差しで。
「……お見せ頂き、ありがとうございます」
頭を垂れたナマエを、エリックは信じられない気持ちで見つめた。今までこの素顔を見て怖がらなかった者はいない。愕然と沈黙するか、叫んで逃げ出すかのどちらかだ。ナマエはそのどちらでもなかった。
エリックは立ち上がり、ナマエに近づいた。そっとその頬に手を滑らせれば、彼女は顔を上げた。その目にはやはり恐れはなく、エリックの全てを包み込むような優しい目をしていた。だからこそエリックは、懇願してしまった。
「……口付けを、してくれないか?」
ナマエは微笑んだ。聖母のような笑みだった。
「喜んで」
屈んだエリックの、引き攣った口へナマエは口付けた。ナマエの唇は柔らかく、官能的で、エリックは思わずナマエを抱きしめていた――これが、人生で初めての口付けだった。