まぶたを撫でないで

私は全力で坂を駆け下りていた。向かい風で桜の花びらがふわりと舞っている。綺麗な光景だったけれど、花びらの行先を追っている場合ではなかった。新学期の初日に遅刻することは、何としても避けたい。女子はすぐにグループを形成するのだ。新しいクラスでうまくやっていくためには、早めに登校してクラスに入って、女子達の輪に入らなければならない。
坂を駆け下り、角を曲がった。速度を落とさなかったのが間違いだった。がつんと誰かにぶつかって、弾き飛ばされた。
「いたた……」
「大丈夫か?」
男の人の声だ。顔を上げれば長髪に整った顔をしている男子がいた。桂くんだ、と私はわかった。あの、変人で有名な桂くんだ。
「大丈夫……桂くんは?」
立ち上がりながら聞くと「俺は大丈夫だ」と言った。
「なぜ俺の名前を……?」
「ああ、だって桂くんかっこいいから、覚えちゃった」
変人で有名だなんて言えず、とっさにそう言えば、桂くんは顔を赤らめた。私は特に気にせず腕時計を見る。予鈴が鳴る10分前だ。
「じゃあ、お先!」
学校への道を駆け抜ける。そういえば、なんで桂くんは学校とは反対方向に歩いていたのだろう。忘れ物でもしたのかな。

結論から言うと、桂くんはエリザベスというペットのキーホルダーを忘れて、取りに戻っていたらしい。なぜそれを私が知っているのかというと、私は不本意ながらZ組に入れられ、桂くんの隣の席になったからだった。
――どうしてこんなことに!
私は頭を抱える。始業式を終えてホームルーム前の休憩時間、ここは動物園かというくらいに騒がしい。あそこではゴリラっぽい男子が女子に絞められているし、こちらでは瓶底メガネの女子と猫耳の女子が喧嘩をしている。
そんな中つらつらと隣の桂くんは聞いてもいないことを述べている。
「――エリザベスも俺と同じく蕎麦が大好きでな、よく一緒に蕎麦を食べるんだ。ナマエ殿は何が好きだ?」
「えっと……天ぷらうどん」
「ほう、ナマエ殿はうどん派であったか。そば派とは相対すると思われるが、うどん派もそば派もどちらも麺類という意味では同じであって――」
もうどうしたらいいのだろう。桂くんは妙に私のことを気に入ってしまったらしく、止めてくれない。大人しそうに見えて実は饒舌なのだ。私が今朝の話を振らなければよかった。
後悔しているとからりと前の戸が開いた。
「おい、席つけー」
気だるい声だけれど、その声はよく聞こえた。皆静まり各々の席に着いたのだ。さすがはZ組をまとめあげる教師、銀八先生だ。
「今日はさっさと帰らせようかと思ったが、今までZ組じゃなかったやつもいるからな。ミョウジ、自己紹介しろ」
今までZ組ではなかったのは私一人らしい。唐突な指名に戸惑いつつ、立ち上がる。
ミョウジナマエです……えーと、好きな食べ物は天ぷらうどんです。よろしくお願いします」
何を言おうか迷って咄嗟に桂くんに言ったことを話してしまった。お辞儀した途端ぱちぱちと拍手が上がる。私は気恥ずかしくなって座った。
「うーん、初々しい反応がイイなァ」
「先生、セクハラです」
先程ゴリラっぽい男子を締めていた女子がにこやかに言う。
「まァミョウジ、こんなクラスだけど悪い奴らじゃねーから、よろしくな」
「はい」
「ってことで解散!」
先生が出ていき、またわいわいと声が教室に溢れる。Z組は皆一年生のときから同じクラスだったから、既にグループが形成されてしまっている。一人で帰ろう。そう思ってカバンを取って立ち上がったところで、「ナマエさん」と先程セクハラですと言った女子に声をかけられた。
「よかったら一緒に帰らない? 私、志村妙。あそこにいる新八の姉よ」
「お妙さん、俺と一緒に……ぐはっ」
近づいてきたゴリラっぽい男子を妙ちゃんはぶん殴った。
「妙ちゃん、この男子は……?」
「近藤さんよ、私のストーカーなの」
「それは……大変だね……」
「アネゴ、帰るアルか?」
今度は瓶底メガネの女子が寄ってきた。
「この子は神楽ちゃん。中国からの留学生よ」
ナマエ、アルな。よろしくネ」
「うん、よろしく!」
この日は妙ちゃんと神楽ちゃんと一緒に帰ることになった。Z組で友達ができるだろうかと心配していたけれど、杞憂だったようだ。ふたりとも優しい人で、楽しく話をしながら帰った。

次の日からは普通の授業だった。朝のホームルームが終わり、ロッカーから次の英語の教科書を取り出していると、隣に桂くんが来た。
ナマエ殿」
「うん?」
「今日の昼飯、俺と食べないか?」
「えっ?」
ぽかんと桂くんを見る。桂くんは大真面目な顔をしていた。それはつまり、私を誘っているということで、同性ではなく異性と二人きりということはつまり――。
「……桂くんは、私のこと好きなの?」
「ハァァ!?」
桂くんはなぜか驚いている。
「な、なぜそう思った?」
「だって男女二人きりで食べたいなんて、そうとしか思えないよ……?」
「二人きりなどいつ言った? エリザベスもいる!」
「でもエリザベスはペットなんでしょう?」
そもそも学校にペットを連れてきていいのか。そんな疑問が湧いたけれど、あのZ組なのだ。そんなことを考えても仕方がない。
「確かにペットだが、俺はナマエ殿にエリザベスを会わせたいんだ!」
だから好きとかそういうのとは断じて違う!と桂くんは否定している。そんなに必死で否定されると私も落ち込む。
「ごめんね、勘違いして……」
「ああ、いや、いいんだ、こちらこそすまん」
私のせいで気まずい空気になってしまった。
「でも、ごめんね、私今日妙ちゃんたちと食べることになってるの。だから明日でもいい……?」
「そうなのか。わかった、明日でいい」
桂くんは肩を落として、教室に戻って行った。悪いことをしてしまった。

「……たらしアルな、ナマエ
昨日からの桂くんとのやり取りを話すと、神楽ちゃんがウインナーを刺しながら言った(なおこれは昼休み用のお弁当で、彼女はすでに早弁用の弁当も食べている)。
「たらし?」
「ふふ、自覚がないのね」
「天然のたらしほど厄介なものはないネ。ナマエがZ組に入ってきた理由もわかるような気がするアル」
「えっ、本当?」
「今までどれだけの男子を手篭めにしてきたのかしら?」
妙ちゃんはにこやかに言う。
「手篭めなんて、そんなことしてないよ!」
「どうかしら……ナマエちゃんは男子と付き合ったことはあるの?」
「ないよ」
「えっ、こんなたらしなのにないアルか!?」
「だからそのたらしって何!?」
何でも二人によれば私は桂くんに好意があるように振舞っているらしい。普通は桂くんのことをかっこいいとは言わないし、好きなの?とかも言ってはいけないし、彼の話に耳を貸さないらしい。それを聞いて私は桂くんが不憫になった。例え皆が桂くんをつっこもうとも、私だけは桂くんのボケをそっと包む存在になろう。そう思った。

次の日の昼休み、私は桂くんと屋上のベンチに座っていた。私を挟むように桂くん、そして得体の知れない生き物――エリザベス――が座っている。
「どうだ、ナマエ殿。エリザベスは可愛いだろう?」
「う、うん。そうだね」
エリザベスはプラカードを出した。「ありがとう」と書かれている。一応日本語はわかるらしい。
「エリザベスはいつから飼ってるの?」
「一年の時からだ」
「へえ、こんな大きい生き物なのにすごいねえ」
普通に感心してしまった。三年も桂くんはエリザベスを育てているのだ。桂くんは照れたようにこほんと咳をした。
ナマエ殿はペットは飼ってるのか?」
「猫が二匹いるよ、かわいいんだー」
「猫か! 俺も肉球が好きでな、あの感触を味わいたくなる」
「猫好きなんだね、じゃあ家に来る?」
いい提案に思えたけれど、桂くんはぎょっとした顔をした。もしかして、またやらかしただろうか。
「お、女子が気安く男を家に呼ぶでない!」
「そ、そうだね……」
確かにその通りだ。
「私ね、いっつもそうなんだ。神楽ちゃんたちにはたらしって言われたんだけど、私は思わせぶりなこと言ってるって……でもそれは単純に桂くんと仲良くなりたいからなの。ごめんね」
「……謝ることはない。ただ、俺以外にそんな態度だと勘違いされかねない。気をつけろ」
「うん……」
また気まずくなってしまい、それからはお互い無言でお弁当を食べた。校庭ではボール遊びでもしているのか、きゃっきゃと楽しむ声が聞こえてくる。
「……俺も、ナマエ殿と仲良くしたいと思っている」
ぱっと桂くんを見る。桂くんはどこか緊張しているような気がした。その表情に私までなぜかどきどきしてくる。初めての感情に戸惑いながら、口を開こうとした。その時だった。
がこんと大きな音がして、隣にいたエリザベスが倒れた。
「エリザベスゥゥゥ!!」
近くには野球ボールが転がっている。桂くんはすぐさま校庭を見た。そこには近藤くん、土方くん、沖田くんがいた。
「風紀委員めェ、成敗してくれる!!」
すぐに屋上から去っていった桂くんに驚きながらも、笑みが浮かんでくる。エリザベスのために怒りに行くなんて、とてもペット思いの良い人だ。
「大丈夫?」
エリザベスを抱え起こすと、エリザベスはプラカードを出した。
『桂さんはかっこいいだろ?』
「うん、すごくかっこいいね」
『惚れた?』
「さあ、どうでしょう」
桂くんの怒声が下から聞こえてくる。桂くんはこんな怒り方をするのか。もっと知りたい、と願う自分に気づき、微笑んだ。