終わりだと思った。このまま小太郎と会えず、好きでもない天人と暮らすのだと、思った。
「……俺と一緒に来ねェか?」
夫となるはずだった天人は血にまみれ、祝杯をあげるためのグラスは面影もなく散乱している。他の天人たちの屍も、血の海の中、そこかしこに転がっている。
こちらを見下ろす晋助は、自分の知らない人のようで、ナマエは震える身体を無理やり抑えながら、首を振った。
「……行かない。私には小太郎がいる。小太郎の帰りを待ちたい」
晋助は右目を細めた。左目に包帯が巻かれていることもあり、表情が読みづらい。
「ヅラと会う前にお前は幕府に捕まる……こいつらは幕府と通じている天人だ。こんな事態になって、この天人たちも黙っちゃいねーだろう」
「…………」
「俺はお前に危害は加えねェし、嫌がることもしねェ。俺と来るか、幕府に捕まるか、どっちが得策かわかるだろ?」
そう言って、晋助はこちらに手を伸ばした。
晋助の言う通りだった。この場から逃げ出せたとして、脚力も戦闘力もない自分は、すぐに幕府に捕まってしまうだろう。そうすれば小太郎には会えない。会えなくなる選択より、少しでも会える未来に賭けたい。
ナマエは晋助の手を握った。彼はにやりと満足気に笑い、そのまま手を引いて走り出した。
「晋助様!! 早くこっちへ……って、誰っスかその女!?」
「話は後だ……行くぞ!」
晋助の仲間らしい金髪の少女とともに、船へと走り込む。乗り込んだ瞬間、船の扉が閉められ地鳴りとともに浮上していくのを感じた。
「よかった、逃げ切ったっスね……」
「そうだな……大丈夫か?」
肩で息をしているナマエに、晋助が尋ねる。
「ハァ……大丈夫……」
「晋助様、その女は……?」
「こいつはナマエ……俺のお姫さんだ」
着物の裾をはらいながら、晋助は答えた。
「空き部屋がひとつあっただろ? そこをナマエの部屋にする」
「……新しい戦闘要員っスか?」
「違う。戦闘には出させねェ……ただ部屋にいてもらう。それだけでいい……また子、部屋を案内してやれ」
「……はい」
晋助はそう命令すると、懐から煙管を取り出しながら去っていった。また子と呼ばれた少女は、こちらを振り返る。その目には嫌悪があった。
「……あんた、晋助様の何なんっスか?」
「……ただの幼なじみよ」
また子は一層目を細めた。彼女は晋助に好意を寄せているようだった。
「まあ、いいっス」
歩き出したまた子の後についていく。船内には機械のような、部品らしきものが壁に詰まっており、空を飛行するために複雑な構造をしていることが予想された。時折すれ違う、晋助の部下であろう男たちは、すれ違いざままた子に会釈した。彼女は部下の中でも、偉い立場にいるらしい。
「……ここっス」
案内された部屋は、和室だった。壁面は綺麗に塗られ、畳が一面に張られている。広さは十畳ほどだろうか。
「トイレとシャワーはそこっス。ここは男所帯だから、女の部屋にはその辺の設備も付いてるっス」
また子はそう最低限のことを言って、その場を去っていった。もっと聞きたいことはあったが、ナマエは呼び止めず、部屋に入って鍵を閉めると服を脱いだ。ひどく疲れていた。天人の伝統衣装らしきその白い服には、血の赤がべっとりと張り付き、重みがあった。
シャワーを浴びたかったが、着替えがない。とりあえず押し入れを開けてみると、布団一式と襦袢が数枚、そして足袋が数足入っていた。襦袢を広げれば、サイズは合いそうだった。まるでこの時のために用意していたようだとナマエは思う。晋助は最初から、自分をこの部屋に入れたかったのだろうか。自分が晋助の手を取ることを見越して、用意していたのだろうか。
――わからない。
晋助は何を考えているのか。わからないけれど、ナマエはこの選択が間違いではないと、そう信じたかった。
また子は自分の世話係を命じられたらしく、三食の食事やその日の着物などを交換してくれた。彼女曰く、晋助の命令が出ない限り、この部屋から一歩も出るなということだった。それは監禁に近いもので、ナマエは勿論反発した。ずっとここにいては、小太郎とも会えなくなってしまう。
脱出を試みたこともある。しかしその度にまた子や、同じ部下であるらしき万斉や武市、岡田に呆気なく捕まり、戻されてしまった。
「お主は恵まれてるのでござるよ」
万斉がそう言ったのは、何度目の脱走の時だったか。
「戦闘もせず、上等な着物を着て綺麗なものだけに囲まれて、愛されて……この汚い世から隔離されてるのでござる」
「私はそんなの、望んでない!」
そう噛み付くと、万斉はふっと笑った。
「……なるほど、晋助が手を焼くのもわかる」
ナマエの仕事は、毎日変えられる高級な着物を着て、綺麗に化粧を施し一日部屋にいることだった。せめてもの抵抗として化粧をしないでいると、また子が呆れたようにやってきて、手馴れたように化粧を施した。
「やめて、化粧なんてしない!」
「……あんたが化粧してくれないと、晋助様が不機嫌になるんスよ」
粉をはたきながら、また子はため息混じりに言った。ナマエが晋助への好意を持っていないとわかったのか、彼女の自分への態度は柔らかくなっていた。
最後に紅を引かれると、また子は惚れ惚れとした顔で言った。
「……やっぱりあんた、綺麗っスね。晋助様に好かれるだけはあるっス」
「…………」
褒められても何も嬉しくなかった。ナマエの心にいるのは小太郎だけで、身綺麗にした姿を見せたいのも小太郎だけだった。
晋助はたまにこの部屋にやってきては、ただ酒を飲んだり、三味線を引いたりして過ごした。彼が言っていたとおり、ナマエの嫌がることは全くしなかった。
最初は晋助がやってくる度に反発していたナマエも、いつからか酌をするようになった。それは脱出を諦め始めた頃だった。
「……もうこっから出ようとは思わねェのか?」
お酌した酒を飲みながら、晋助は言う。
「……出ようとしても、晋助が連れ戻すでしょ」
「そりゃあそうだ」と彼は口角を上げた。
「しかし、随分と面白味のねェ顔になっちまったな……」
するりと頬を撫でられ、ナマエは反射的にその手を払った。何がおかしいのか、晋助はクククと笑う。
「……なんだ、ヅラのことはまだ想ってるのか」
「…………」
「お前がここに来てから、どのくらい経ったかわかるか?」
「わからないよ、この部屋には時計も何もないから……」
しかし、また子が初めて会った頃より成長していることはわかった。二、三年……最高で五年は経っているだろうか。
「……十年だ」
「えっ?」
「十年。お前がここに来てからそのくらい経つ」
何かの冗談だろうか。ナマエは目を見開き、晋助の言葉を反芻する。
「驚くのも無理はねェ。この部屋は何も変わらねェからな……その間、ヅラは一度も俺を訪れることはなかった。ナマエの居場所を突き止めることはできなかった――いや、しなかったんだろう」
「何を知ったようなことを……私が晋助のところにいるなんて、小太郎はきっと想像もしてない!」
「あいつは俺がお前に惚れてることを知ってるはずだ……知ってて尚、ヅラはお前を助けには来なかった。それが事実だ」
ぐらりと体が揺らぐような感覚に陥る。畳に手をついたナマエを他所に、晋助は立ち上がった。
「よーく胸に刻み込むんだな。ヅラはお前を忘れたってことを」
扉が閉まる音がした。残されたナマエは、必死に頭の中で、言われた言葉を否定する。
小太郎が自分を忘れる訳がない。晋助の言うことはデタラメだ。晋助からの好意なんて、自分はここに閉じ込められるまで知らなかった。小太郎だってきっと、晋助が自分に惚れているなんて考えたこともないだろう。信じちゃいけない。
ドガガガと上から大きな音がして、ナマエははっと天井を見る。戦闘が始まった。侵入者がやってきたのだ。
ナマエは以前、部屋でじっとしているのが堪えられず、また子に護身術の教えを懇願した。薙刀くらいは塾で習っていたが、薙刀のない今の環境では意味がなかった。また子は困ったように眉を寄せながらも、それを教えるなとは言われていなかったようで、「晋助様には内緒っスよ」と教えてくれるようになった。その後脱出を試みた時、さすがにまた子たち幹部は倒せなかったが、部下である男の一人くらいは倒せる力がついていた。それを知った晋助から、また子は大層怒られたそうで、教えたことを後悔していた。
上からの音が止み、やがて、「離すアル !!」と大きな声が聞こえてきた。ナマエは部屋の戸を少し開けて廊下を見る。天人なのだろうか。赤い服を着たオレンジの髪の少女が、武市たちに連れられていた。
この混乱に乗じて、脱出できないか。船が随分前から泊まっていることは感覚でわかっていた。前に脱出しようとした経路を思い出す。部屋を出て向かって右の道を行き、しばらく走って三つ目の角で、今度は左に行けば外への扉があるはずだ。以前は左で曲がったところで万斉に糸で絡め取られてしまった。
きっと、少女を助けに来る者がいるはずだ。その期を逃さなければ脱出の機会はない。小太郎に会いたい、会って真偽を確かめたいという気持ちは大きくなっていた。ナマエはその時が来るのを待ち、そして――ドゴオンと大きな地響きが鳴った。
――来た!
船が攻撃されているのだ。上空から攻撃しているらしく、続けてまた爆発音が鳴る。部屋の外がバタバタと騒がしい。
ナマエは戸から周りを伺うと部屋を出た。右の通路を走り、三つ目の角を曲がる。そして――。
「……逃げるつもりか?」
晋助が、立っていた。非常事態だというのに、悠々と煙管を吹かしている。
「……私は逃げる。晋助のそばにはいられない、小太郎を探しに行く」
「フン」と晋助は鼻で笑うと、脇に退いた。
「晋助……?」
「勝手にすりゃあいい。その目で確かめてこい、ヅラの心を」
「…………」
ナマエは無言で晋助を通り過ぎ、外へと飛び出した。十年ぶりに浴びる陽の光に目が眩んだが、足を止めている暇はない。
甲板にはまた子達と、先程の少女と、少年と、見た事のないアヒルのような生物がいた。その生物とすれ違いざま、懐かしい匂いがした。まさか、と思いながらも、浮き輪になりそうな板を掴んで、甲板から飛び降りる。
「えっ、ナマエ !?」
落ちている間にまた子の声が聞こえた。
ナマエはざぶんと海に沈んだ。体を浮かせ、板にしがみつく。そして片手で泳ごうとしたが、体が動かない。力が入らず着物は水を吸ってどんどん重くなっていく。
せっかく晋助の元から逃げられたのに、体がついて行かず泳げないなんて。冷たい水に体温が奪われていく。かろうじて板にしがみついていられるが、それも時間の問題だ。薄れゆく意識の中、ナマエは思った。
――……会いたいなんて贅沢言わないから、小太郎を、一目でいいからもう一度見たかったな。
とんとんとんとんとん。
包丁で何かを刻む、リズミカルな音がする。雀の囀り、子供の騒ぐ声が次いで聞こえ、まぶたの裏には光を感じる。
ナマエは目を開けた。天井は、今まで見てきた、パイプで張り巡らされたものではなく、一般的な家庭の、木目のある天井だった。
――……生きてる?
ゆっくりと瞬きをする。自分は布団に寝かされているらしい。先程の音は、と体を起こしてそちらを見た。瞬間、切れ長の瞳と合う。
「こ、小太郎?」
「ナマエ !!」
彼は炊事場からすぐにこちらへやってきた。
「大丈夫か!? 痛いところはないか?」
「大丈夫……だけど……」
ナマエはぼんやりと、「ならよかった、危ないところだったんだぞ。ナマエを船にあげた時には――」と一人で話している彼を眺めた。彼の長い髪は、肩までばっさりと切られている。けれど顔は小太郎だ。どこからどう見ても、ナマエの好きな小太郎だった。
むに、と彼の頬を軽く摘む。
「にゃんだ?」
声ももちろん小太郎の声だ。
「……小太郎、なの? 本物の、小太郎?」
彼はナマエの手を取って、微笑んだ。
「ああ、本物だ。本物の小太郎だ」
「うそ……私、天国に来ちゃった?」
今度は彼が、ナマエの頬を摘む。
「感覚はあるだろう?」
「うん……」
「嘘でも、天国でもない……ここは江戸だ」
ここは江戸で、現実で、目の前の小太郎も本物で。認識した途端、小太郎への想いがわっと込み上げて、ナマエは小太郎に抱きついた。今まで我慢していた分の涙が、堰切ったように流れた。
「小太郎……!!」
小太郎は泣いているナマエの頭を、そっと撫でてくれていた。優しい手つきに、涙はますますこぼれ落ちた。
落ち着いた頃に、小太郎はこの十年間で何をしていたか話してくれた。ナマエは彼が作ってくれたおじやを食べながら、耳を傾けた。
小太郎は松子から話を聞いて晋助だとピンと来たらしく、江戸に向かい晋助がいないことがわかると彼を追って京まで行ったらしい。
「高杉の船まで行ったが、高杉はナマエなんて乗せていないの一点張りでな……だが奴は、ほのかにナマエの匂いを纏っていた。俺は絶対に乗っていると確信した」
しかしその時は小太郎一人だったため、多勢に無勢で自分を連れて逃げるのは困難だと判断した。小太郎は江戸に戻って、政治結社を作ると勢力と武力を拡大することに注力した。
「銀時を探して共にナマエを助けようかとも思ったが、奴の居場所はわからなかったし、また刀を振るわせるのも酷な気がしてな……俺の攘夷党が十分な力を蓄えるまで待つ必要があった……本当に、長い間待たせてすまなかった」
小太郎が深く頭を下げる。ナマエはスプーンを置いて、「顔を上げて」と声をかけた。
「晋助の船に乗ると決めたのは私だから、小太郎は何も悪くないし、謝る必要なんてない。悪いのは全部、私」
「……すべてが高杉によって仕組まれたことだとしたら、どうする?」
「えっ?」
「あの天人に、ナマエという美人がいると吹き込んだ奴がいると噂で聞いてな……それが高杉の部下だったのではないかと俺は思っている」
ナマエは口を手で覆った。すべてが晋助によって計画されたことだった? ならば最初からあの天人たちを殺して、自分を船に乗せるつもりだったのか。
「そんな……そんなこと、晋助がやるなんて、そんな……」
「……今のあいつならやりかねない……だから、ナマエが自分を責める必要もない」
小太郎はナマエの左手に触れた。彼の真っ直ぐな瞳の中には、優しさと労りがあった。ナマエは再び涙が溢れ、こぼれた雫を右手で拭った。
「……ありがとう。そう言ってくれて、助けてくれて、ありがとう」
「礼を言われる筋合いなどない……ナマエは自力で船を降りた。俺は結局助けられなかった」
「そんなことない、海に浮かんだ私を助けてくれた……ありがとう、小太郎」
そう言って微笑むと、小太郎は目を見開いて、それから俯いた。彼の表情は前髪に隠れ、見えない。
「小太郎……?」
呼びかける。小太郎はしばらく俯いていたが、やがて顔を上げた。
――……あ。
気づくと同時に、小太郎に抱きしめられた。先程よりも強く、がっしりと。
「……俺はもうナマエと離れないし、離さない。貴様が嫌だと言っても、絶対に離さん」
ナマエはクスリと笑って、小太郎に身を預けた。
「嫌なんて言わないよ、どこかの誰かさんが私と別れない限り」
「別れるなど有り得ん……ナマエは俺と別れたいのか?」
「ふふ」
「いや、ふふじゃなくて……えっ?」
焦っている小太郎の背中に腕を回す。必死に自分の魅力を語ろうとしていた口は、閉じられたようだった。
賢いところも、堅いようで柔軟な考えを持っているところも、ちょっと変なところも、真面目なところも、目を開けて寝るところも、さっき顔を上げた時、瞳が潤んでいたところも、全部全部、
「好きよ、小太郎。世界で一番、あなたが好き」