始まり

 一
 
 ハイ・テーブルに、見知った人を見つけた。
 土気色の頬を覆うべたついた黒髪、大きな鉤鼻、同じく黒いマントに身を包んだその人の名は、きっとセブルス・スネイプだろう。
「……あの人、誰?」
 自分の視線の先を追ったのか、隣に座るサラが呟いた。
「新しい魔法薬学の先生だよ。ほら、元デスイーターの」
 向かいにいるポールが答える。サラはあからさまに嫌な顔をした。
「え、あの人が元デスイーターの? だから何だか、暗い感じがするんだわ。私、授業受けたくない」
 あけすけに言うサラに、アイリスは笑ってしまった。
「確かに、暗い感じね」
「スラグホーンの代わりだったら、スリザリンの寮監もやるかもよ」
「げー、スリザリンの寮監? 私スリザリンじゃなくて本当によかった」
 いかにスリザリンに嫌なやつが多いかを話し始めたサラたちを横目に、もう一度ハイ・テーブルを見上げる。すると真っ黒の瞳と合った。セブルス・スネイプだ。
 あ、と思った時には逸らされ、彼は再び料理に目を落とした。様子を見るも、その瞳はもうこちらを向くことはなかった。
 アイリスはほんの少し胸がざわついた。自分の記憶の中のセブルスは、いつも不機嫌そうな顔をしていたが、その瞳には感情があったと思う。先程の目には、それが抜け落ちていた。デスイーターになって、変わってしまったのだろうか。なぜホグワーツに戻ってきたのか、戻れたのかは、ダンブルドアしか知らない。
 でも、とアイリスは思う。セブルスはきっと、リリーのためにダンブルドア側へ寝返った。そう思えてならないのだった。

 セブルス・スネイプはサラたちが予想した通り、最悪の教師だった。スリザリンをあからさまに贔屓し、グリフィンドールには殊更冷遇した。特にサラはそうした不平等には黙っていられない性格だったため、毎回授業でセブルスに突っかかり、毎回減点されていた。
「あいつ、ほんと何なの?」
 魔法薬学の授業が終わり、次の天文学へ急ぎながらサラが吐き捨てるように言った。
アイリスの戯言薬なんて、すごくよく出来てたのに、なんでグリフィンドールには一点も入れないわけ? おかしくない?」
「まあ、それがスネイプなんだよ」
 ポールが穏やかに言う。
「怒るのもわかるけど、受け入れるしかない。こっちは生徒で、向こうは先生なんだから」
「あいつを教師なんて思いたくもないわ……スラグホーンを恋しく思う日が来るなんて」
 アイリスは苦笑する。スラグホーンはスラグホーンで贔屓の生徒がいたし、その中には自分も入っていたと思う。マグル生まれなのに、優秀。それがスラグホーンからの評価だった。
 彼と比較すれば、スネイプはまだいい方ではないかと思ってしまう。人ではなく寮で差別するのだし、少なくともマグル生まれと純血を分けて考えているわけでもなさそうだった。元デスイーターだというのに。
 アイリスはそんな彼を意外に思う。例のあの人に服従していたセブルスが、マグル生まれを差別しないはずがなかった。改心したのだろうか。リリーが亡くなって、ダンブルドアに認められたのは、それが関係しているのだろうか。
 わからないことを考えていても仕方がない。サラたちと席に着いたアイリスは、頭を切り替えた。

 五年生になって初めてのクリスマスは、ホグワーツで過ごすことにした。サラたちは例年通り家に帰り、アイリスはひとり、図書館で本を読んで過ごしていた。やはり残る生徒は少ないのか、他にいる生徒はおらず、いつもマダム・ピンズによって静けさが保たれている図書館が、今はより一層静寂に包まれていた。
 ぱらり、とページをめくる。アモルテンシアの項に入ったようで、パール状の液体が入った瓶のイラストが出てきた。愛の妙薬。取り扱い注意と書かれている。
 これを教えてもらったのは、確か一昨年の夏のことだった。リリーとともにダイアゴン横丁で学用品を買いに行った時、入った書店に、魔法薬の図鑑があった。何の気なしにパラパラ捲っていると、リリーがあるページにすっと指を落とした。それがアモルテンシアのページだった。
「懐かしい、学生時代に話題になったものよ」
「……作ったことあるの?」
「ええ、授業でね。アモルテンシアの香りは、人によって異なるの……好きな人の匂いがしたりするのよ」
「ふーん」
 適当に返事をすると、リリーは肩をすくめた。
「全然興味ないって顔ね。まあ、まだアイリーは一三歳だものね、これからわかってくるわ」
「えー、私そんなのわかりたくない」
「そう思ってても、嫌でもわかってしまうの。それが恋というものよ」
 リリーの大人びた言葉を、今も覚えている。
 アイリスはページを閉じた。アモルテンシアに関する知識なんて、今もいらない。色恋沙汰に興味もない。
 本を元に戻すと、図書館を出た。行く宛てはなく、とりあえず談話室に戻ろうかと、誰もいない廊下を歩く。肖像画たちの視線が、自分を追っているのを感じる。休暇中に生徒が歩いているのは珍しいのだろう。
 大広間の前に出ると、ちょうど地下から上がってくる人物がいた。黒のマントを靡かせ、早足で歩いてくる。セブルス・スネイプだ。
 アイリスは会釈して通り過ぎようとしたが、「ミス・エヴァンス」と呼びかけられた。立ち止まって振り返る。漆黒の瞳とぶつかる。
「……何をしていた?」
 どうやら、減点する材料を探しているらしい。アイリスは「図書館に行ってました」と簡潔に答えた。するとセブルスは「そうか」と残念がる様子もなく言った。
「……君は、家に帰らないのか?」
 プライベートな質問に、アイリスは胸を衝かれた。けれど、リリーの幼なじみのよしみで聞いてくれたのだろう、と腑に落ちて、答える。
「はい……今は一人暮らしをしてるので、帰っても寂しいだけですから」
「一人暮らし? もう一人の姉はどうした?」
 セブルスは眉根を寄せた。
「……ペチュニアはマグル同士で結婚してますし、夫には私の存在をあまり教えたくないようで、私は一人で暮らしてます」
「……君はそれでいいのか?」
 自分を慮るような様子に、アイリスはまた驚いてしまう。それが顔に出ていたのか、セブルスは「いや」と発言を撤回した。
「……すまない。個人的な質問だったな」
 言って、セブルスは去っていった。
 人に心配されるのは慣れていた。リリーもジェームズも亡くして、魔法に理解のある家族もおらず、たった一人でアパートに暮らすことになった子として、憐憫の目を向けられることもある。けれど。
 ――君はそれでいいのか、なんて初めて聞かれた。
 自分の意思を確認してくれる人は今までいなかった。アイリスはただ、周りの大人に言われるがままに生活してきた。特にリリーたちを亡くしたあとは、あまり自分のことを考えないようにしていた。
 遠ざかっていく後ろ姿を見つめる。アイリスはその背に少しだけお辞儀して、再び歩き出した。

 …

 リリーがセブルスと仲がいいのは知っていた。公園の木の下の、さわやかな木陰で彼らはよく話していた。ペチュニアは近づかない方がいいと言っていたが、アイリスにとって魔法界の話は、平凡な日常の中で光を放つ、宝石のようなものだった。
 大体はリリーに見つかって、一緒に過ごすことになった。こちらに向けるセブルスの眼差しは険しかったが、一方でリリーに向ける眼差しは優しく、幼いながらに、彼がリリーに惚れていると理解した。
 リリーとセブルスの仲は、ずっと続くかのように思われた。けれど、彼らが六年生になる年の夏休み、リリーは彼と会っていないようだった。それに気づいて尋ねれば、「もうあの人とは会わないの」と一言だけ言って、リリーは口を閉ざした。決別するような何かがあったのは明白だった。
 九と四分の三番線でセブルスを見かけて、アイリスは話しかけた。もうリリーと会わないの?とか、何かあったの?とか、そんな言葉をかけた気がする。セブルスは「君には関係ない」とだけ言って、ホグワーツ特急の中に乗り込んでしまった。
 子供だったアイリスは、仲違いを悪いことだと思っていた。だから二人が会わなくなったときは、不安と焦りを感じた。何とかして仲直りできないかと、考えたこともあった。けれど、二人の中の何が問題だったのかがわからず、途方にくれた。
 そして諦めていた頃、リリーが同じグリフィンドールの同級生である、ジェームズと結婚した。彼女がセブルスと縁を切ったことを突きつけられ、最初はうまくジェームズと話せなかったが、彼のユーモアと朗らかな性格に、徐々に打ち解けていった。
 そのうちにハリーが生まれ、アイリスはリリーとジェームズと、ハリーとの暮らしがずっと続くと思っていた。

 …

「……ミス・エヴァンス」
 低い声で名前を呼ばれ、アイリスは目を覚ました。見上げれば、セブルスが心底不愉快だと言わんばかりに眉を顰めている。
 眠ってしまったのだ。よりによって、魔法薬学の授業中に。
「す、すみません……!」
「私の話がよほど退屈だったらしい……グリフィンドール一〇点減点」
 容赦なく減点され、アイリスは俯いた。
 このところ、気づけば眠っている。
 例えば午後の授業だったり、夜の談話室だったり、場所は様々だ。魔法史の授業でさえ一度も寝たことがなく、それがアイリスの誇れることのひとつだったというのに、こないだはビンズ先生の声に微睡んでしまった。そして今、気をつけていたにも関わらず、緊張すべき魔法薬学の授業でも眠ってしまった。
 何か書き物をしていても、サラたちと話をしていても、突然睡魔はやってくる。十分な睡眠時間を取っているはずだというのに。
 マダム・ポンフリーに相談したこともある。けれど異常は見られず、精神的なものだろうとのことだった。
 目覚まし薬はあるようだったが、依存してはいけないからと少量だけもらっていた。それももう尽き、セブルスの授業で眠ってしまった今、本気で睡眠欲と戦う方法を考えなければならない。マダム・ポンフリーにまた目覚まし薬をもらうのが一番よかったが、先日の様子だと拒否される可能性が高い。
 ふと、あるアイデアが浮かんだ。アイリスは安らぎの水薬を混ぜながら、ちらりとセブルスを見る。彼は蝙蝠のように、生徒たちの間を縫って歩いている。自分のことを気にかけてくれている、と断言はできないが、休暇中のあの質問は、自分に興味がないと出ないものだと思う。たぶん。
 セブルスと目が合い、思わず逸らす。何か企んでいると思われたのか、黒い影はこちらにやってきた。横から鍋をのぞき込まれる。少し緊張したものの、セブルスは何も言わず去っていった。代わりに隣にいたサラの手つきが危険だということで、三点減点されていた。
 瓶に薬を入れて提出したところで、授業が終わった。次は昼休みだ。早く教室を出たがるサラたちに、「先に食べてて」と言って、生徒たちが出るのを待つ。多方いなくなったところで、教壇で提出された薬を並べているセブルスの元に向かった。
「……先生」
 セブルスはこちらを見下ろした。いつものように眉は顰まり、どうでもいいことで自分を呼んだのならば承知しないという、威厳たっぷりの声音で答えた。
「……なんだ」
「目覚まし薬を、作っていただきたいんです」
 ほう、とセブルスは眉を上げた。
「君は慢性的に眠気に悩まされているから、私の授業で眠ってしまったというのかね?」
「……信じてくださらないとは思うんですが、そうなんです。いつも突然睡魔がやってきて……眠って、しまうんです」
 アイリスは俯いた。嘘のような、本当の話だ。
「……本当だとしても、私ではなくマダム・ポンフリーに言うべきだ」
「言いました……目覚まし薬を少量もらいましたが、それ以上はたぶん出してくれないだろうと思って、先生にお願いしようと……」
「彼女が出さない薬を、なぜ私が出すと思った?」
 呆れたようにセブルスが言う。それもそうだ、とアイリスは思う。校医であるマダム・ポンフリーが出さないのなら、他の教師が出すわけがない。けれどセブルスなら、と思ってしまったのは、昔から彼を知っていて、そのよしみで何とかしてくれるかもしれないという甘えがあったからだ。現実はそんなに甘くない。
「……そうですよね」
 すみません、と言って、アイリスは教室を出ようとした。しかし戸に手をかけたとき、あることが浮かび、振り向いた。セブルスは自分のことなど見ておらず、杖を振って教室の片付けをしている。
「先生」
「……まだいたのか」
 苦い顔をされるも、アイリスは躊躇せず言った。
「目覚まし薬がだめなら、一緒にリリーの話をしませんか?」
 眉根が一層顰められた。セブルスは杖を下ろして、こちらを向いた。
「……なぜ、そんな話を君としないといけないんだ?」
「……マダム・ポンフリーに、眠気が強いのは精神的なものではないかと言われました。私は……もしかしたら、リリーとジェームズがいなくなったことを、現実だと受け入れられてないのかもしれません」
「私は君のカウンセラーでも何でもないのだが」
 セブルスの口元に、冷ややかな笑みが浮かんだ。
「校長に言って、カウンセラーでも呼んでもらったらどうだ?」
「私は……セブルスと話したいんです」
 セブルス、と呼んだ瞬間、彼が目を見開いた。そして、その目が一瞬和らいだのを、アイリスは見逃さなかった。
 どうしてここまでセブルスに固執するのか、アイリスは自分でもよくわからなかった。でも、セブルスでなければ、このわだかまりも眠気も、なくならない気がした。リリーをよく知っていて、自分とも過ごしたことのあるセブルスでなければ。
 アイリスは一歩セブルスへ近づいた。
「……だめですか?」
 セブルスは目を逸らし、ため息をついた。
「水曜、夕食後に私の研究室に来い」
 諦めのため息だったらしい。セブルスは低く言った。
「ありがとうございます」とお礼を言うも、彼は再び生徒たちの鍋を向き、こちらを全く見なかった。アイリスは今度こそ教室を出た。
 セブルスとリリーのことを話せる。その機会をもらえたことに、じわじわと喜びが湧き上がる。そこでようやく、自分がどれほどリリーの話を誰かとしたかったのかを自覚した。

 水曜日の夕食後、アイリスは地下を訪れた。薄暗い地下は、きっと松明の炎が消えれば闇に包まれ、暗黒の中に自分も吸い込まれてしまうだろう。ホグワーツに入学してから、アイリスは地下に行くたびにそんな考えが浮かび、どちらかというと苦手な場所だった。スリザリンの人達は平気なのだろうか。
 研究室の扉を叩くと、扉が開きセブルスが顔を出した。その彫りの深い顔は、半分影になっていて表情があまり見えない。
「入れ」
 中に入ると、まず大きな戸棚が目に入った。そこには様々な材料が、瓶詰めされて入っていた。魔法薬学の材料だろう。虫らしきものを見つけて、アイリスは目を逸らした。
 セブルスは中央にある黒のソファに腰を下ろした。「座れ」と言われ、アイリスもその向かいに座る。
「……さて、私にどんな話をしたいのか、聞かせて頂こうか」
 嘲笑を浮かべるセブルスに、アイリスは憤りを感じたが、自分のために時間を取ってくれたことを思い、ゆっくりと口を開いた。
「……リリーは、私の太陽でした」
 ペチュニアは私が魔法を使えるとわかった瞬間、私の面倒を見ることをやめました。私は両親とリリーに頼って生きてきましたが、両親を早くに亡くして、頼れる身内はリリーだけになりました。リリーは正義感が強くて、明るくて、私にとって、太陽のような存在でした。
「先生にとっては、リリーはどんな存在ですか?」
「……私に話を振るな」
 セブルスは吐き捨てるように言った。
「でも、セブルスの話も聞きたいんです……」
「私が話すことなど何もない。君の話を聞いてやっているだけで感謝しろ」
 アイリスは諦めて、また話を続けた。
「……リリーは、自分と私がよく似てるって言うんです。顔もそうですが、性格も似ていると。昔の私ならそうだったかもしれませんが、今の私とリリーは、きっと似ても似つきません……私がグリフィンドールに入って、リリーは喜んでくれましたが、私は組み分け帽子が間違ったんじゃないかと思います。私はリリーのように勇敢ではないですし、どちらかというと臆病者です」
「……私に話を聞けと言ってきた君が、臆病者には思えないが」
 セブルスは鼻で笑った。話しかけてくれたことに驚きながらも、アイリスは答えた。
「……セブルスを怖いと言う生徒はたくさんいると思いますが、私は怖いとは思いません。昔から知っている、幼馴染です」
「ほう。私はそう思ったことは一度もないが」
「それでも、私は勝手にそう思ってます……私にとってはリリーと同じく、頼れる大人です」
 セブルスは無言だった。アイリスは続ける。
「……先生は前に、私はそれでいいのかと聞いて下さりました。あれから考えたんですが、私はやっぱりリリーたちと暮らしたいと思ってしまいます。でも、それは叶わない。なぜなら――」
 心の底から、込み上げてくるものがあった。懐かしい感情。懐かしい感覚。
「――死んで、しまったから」
 涙がこぼれ落ちる。
 リリーとはもう会えない。もうこの世にはいない。
 実感とともに悲しみが波のように押し寄せ、それが雫となって頬を伝う。リリーたちの葬儀でも泣かなかったのに、今その分を補うかのように涙が止まらない。自分の中にこんな大きな感情があったとは思わなかった。自分は大丈夫だと、勝手に思い込んでいた。改めて口に出したことで、それが現実だと突きつけられ、遠くにあると思われていたものが急に近くに感じ、自分のことと認識した。
 しゃくりあげるアイリスに、セブルスは何も言わず、何も差し出すこともせず、ただ落ち着くのを待ってくれた。「すみません」と謝りながら、持っていたハンカチで涙を拭く。鼻をすすって顔をあげるも、ぼやけた視界の中では、セブルスの表情はわからなかった。
「……ごめんなさい。泣くつもりはなかったんです、でも、リリーたちを亡くした悲しみが、初めて込み上げてきて……すみません」
「……別に謝ることではない」
 セブルスの声音は、いつもよりほんの少し柔らかい気がした。
「泣きたいのなら泣け。私に止める権利はない」
「セブルスも……リリーが亡くなって、泣きましたか?」
 思わず聞いてしまった。答えなくていいと、撤回しようとしたとき、セブルスは言った。
「そうだな……私が死ねばよかったとさえ思った」
 初めて聞く彼の本心に、アイリスは驚き、そして胸がいっぱいになった。セブルスはずっとリリーを思い続けていたのだ。リリーがジェームズと結婚したあとも、ずっと。
「……私は、セブルスにも死んで欲しくないです」
「…………」
「またここに来て、話してもいいですか……?」
 リリーのことに限らず、単純に彼と話したかった。セブルスは迷ったようだったが、頷いてくれた。
「……私の仕事の邪魔にならない範囲であれば」
「ありがとうございます」
 立ち上がり、お辞儀をする。あまり話をして引き止めてもいけないと思い、「また夕食後に伺います」と言って、彼の部屋を後にした。
 まさか自分がこんなに泣くとは思わなかった。談話室に帰れば、酷い顔をした自分に、サラたちが心配してしまうだろう。けれどアイリスは清々していた。自分の中にあったもやがなくなったような、すっきりとした気分だった。目に映る全てが、以前よりくっきりとして見えた。

 
 二
 
 セブルスと話したその日から、唐突な眠気に襲われることはなくなった。サラたちはアイリスの変化にほっとしたようで、泣いた日のことを詮索しないでくれた。彼の前で泣いてしまったことは、あとから考えると少し恥ずかしく、また行くと言って二ヶ月が過ぎていた。
 四月のやさしい日差しを受けながら、サラたちと木陰の下で休む。時々吹く、まだ寒さの残った風に、今が春だと否応なく気づく。
「……次の授業、なんだっけ?」
 サラが欠伸をしながら言った。
「魔法薬学だよ」とポールが伸びをして言う。
「うわあ、こんな良い天気の日にあいつに会わなきゃいけないの?」
 心底嫌そうで、アイリスは相好を崩した。
「サラは本当にスネイプ先生が嫌いね」
「そりゃあそうでしょ! あの陰険教師好きな奴いたら、見てみたいわ」
「そろそろ時間だよ」
 ポールが芝生から身を起こした。アイリスたちも立ち上がり、一旦教科書などを取りにもどると、地下へと向かった。
 教室の前の廊下で開くのを待っていると、スリザリンのエドガー・アビントンがこちらを見てこそこそと取り巻きと話していた。どうせマグル生まれだからどうのこうのと、自分の悪口を言っているのだろう。
「……何あいつ、何でアイリスの方見てるわけ?」
 掴みかからんとするサラに、気にしないでと声をかける。
「でも……!」
「私は気にしないから」
 何よりサラが突っかかったところで、セブルスに減点されるだけだ。そう思ったところで、ちょうど教室の扉が開き、セブルスが出てきた。
「入れ」
 ぞろぞろと皆が教室へ入っていく。教室の入口で、前を歩くアビントンが羽根ペンを落とした。アイリスはそれを拾い、迷った末にその肩を軽く叩いた。
「あの、落としたよ」
 振り向いたアビントンは、差し出した羽根ペンをひったくるように取り、蔑むように言った。
「……僕に触るな、穢れた血が」
「!」
「な……!」
 礼を言われる期待などさらさらなかった。ただ、まさかその言葉が出てくるとは思わず、アイリスはぎょっとした。何も言えないアイリスの代わりに、サラがアビントンを非難しようとした。けれどそれを遮るように、セブルスが割り込んできた。
「エドガー!」
 入口付近にいたセブルスは、アビントンのローブを掴み、彼を指差した。
「私の前で、二度とその言葉を使うな……!」
 セブルスは明らかに怒っていた。反抗的な生徒に冷笑することはあれど、怒ることはなかったセブルスが、怒りに燃えていた。それも、スリザリン生に対して。
 唖然とする自分をセブルスはちらと見て、ローブから手を離した。冷静さを取り戻したようだった。アイリスと同じ顔をしていたアビントンは、「すみません」と謝り、中へ入っていった。本当はセブルスではなく自分に謝って欲しいところだったが、アビントンの人間性では無理だろう。
 その後は何事もなかったかのように授業が進んだ。セブルスは変わらずグリフィンドールを容赦なく減点し、スリザリンに点を与えた。アビントンは怒られて、不貞腐れているようだった。サラはセブルスを見直したらしく、減点されても反抗しなかった。
「……あいつが、あの差別用語に怒るなんて、良いところもあるのね」
 授業が終わり、変身術の教室へ向かう途中、サラが感慨深く言った。隣を歩くポールも頷く。
「うん。実は良い先生だったりしてね」
「いや、良い先生かどうかは微妙かな……」
 アイリスは笑いながら、今日はセブルスを訪ねようかとぼんやりと考えた。久しぶりに話したかったし、何よりお礼を言いたかった。
 夕食後、サラたちには図書館に行くと言って、アイリスは地下に下りた。松明の炎で照らされた廊下を通り、研究室の扉を叩けば、セブルスが現れる。
「……今、大丈夫ですか?」
「……ああ」
 セブルスは扉を大きく開けてくれた。彼の心に入れてもらえている気がして、嬉しく感じる。
 前と同じく、向かい合ってソファに座った。
「……今日はありがとうございました」
 先に礼を言うと、セブルスは眉を上げた。
「何の礼だ?」
「私があの言葉を言われたことに、怒ってくれたことで……」
「ああ」と彼は頷いた。
「別に君のために怒ったわけではない。ただ単に私がその言葉を嫌っているだけだ」
「……でも、私は嬉しかったです。何も言い返せなかったので」
 微笑むと、セブルスは目を伏せた。
「……慢性的な眠気はなくなったのかね?」
「はい、先生と話した日からなくなりました。そのことでもお礼を言いたくて」
「私は何もしていないが」
「先生は私の話を聞いてくださいました。だから私は、現実と向き合うことができました」
「……君が勝手に話して、勝手に泣いただけだろう」
「確かに、そうですね」
 セブルスの言う通りだ。けれど話をして安心して泣くことができたのは、相手がリリーと自分を知るセブルスだったからだ。
「……セブルスがホグワーツに来て、本当によかった」
 独り言のように呟く。セブルスは黙っていた。
「……セブルスは、私とリリーが似てると思いますか?」
 こないだは、リリーと自分が似ていると、リリーに言われたことを話した。アイリスはそう思わないため、セブルスに尋ねてみたかった。質問すると、セブルスの眉間の皺が深まった。
「それを知ってどうする?」
「どうもしないです。ただ、セブルスの目から見て、どうなのかなと……」
 セブルスは溜息をつき、それからこちらを観察するように見た。冷静な視線が顔を滑る。アイリスは居心地が悪く感じた。
「……顔はよく似ている」
 セブルスはそう簡潔に言った。
「……具体的には?」
「具体的も何も、よく似ている以外に話すことがあるか?」
「じゃあ、一番似てる箇所を教えてください」
 セブルスの眉の皺は相変わらず刻まれていたが、彼は口を開いた。
「……目だ。その緑の瞳はリリーそのものだ」
 リリーそのものと聞いた瞬間、言い知れぬ優越感を感じた。なぜそんなものを抱くのか、何に対して抱くのか、アイリスは自分に問いかけたけれど、答えは見つからなかった。
「……声も若干似ている」
 セブルスの言葉に、アイリスは伏せていた目を上げた。セブルスは自分を見ているようで、見ていなかった。
「君が金髪ではなく赤毛だったのなら、外見は学生時代のリリーと遜色なかったかもしれん」
「……セブルス」
 名前を呼ぶ。リリーの呼び方を意識して。
「なんだ?」
 セブルスの目も、声音も、今までになく優しさが滲んでいて、アイリスはどきりとする。同時に先程の優越感の正体を悟った。セブルスの表情が柔らかくなるのは、全校生徒の中でおそらく自分だけだ。
 アイリスは立ち上がり、セブルスの隣に座った。無言でこちらを見る彼に、お願いする。
「……ハグ、してもいい?」
 無性に、抱きしめられたいと思ってしまったのだった。大人に――セブルスに――甘えたいと、思ってしまった。
 セブルスは目を見開き、それからますます眉を顰めた。
「急にどうした、人の体温が恋しくなったのか?」
「……たぶん、そんな感じ」
「私は君の家族でも何でもないのだが」
「そうだけど、知り合いではあるでしょう? お願い、一回だけでいいから……」
 セブルスは眉間に手をやり、ため息をついた。長いため息だった。
「……一度だけだ」
 許可してくれたセブルスに、顔が綻ぶ。
「ありがとう」
 セブルスの背中に、座ったまま恐る恐る腕を回す。大人とハグをすることなど、本当に久しぶりだった。セブルスの体と自分の体がぴたりと合わさる。同時に彼の薬品の匂いや、ローブ越しの体温を感じ、胸板に顔を寄せれば規則的な心臓の音が聞こえてきた。
 ――落ち着く。
 彼の匂いや体温は、アイリスにとってとても心地よいものだった。セブルスもまた同じように思ってくれたらしく、自分の背に腕を回している。
「……君は、リリーの匂いがするな」
 髪をすくうようにとりながら、セブルスは言った。セブルスに触れられることは嫌ではなかった。
「リリーとおなじシャンプー使ってるから……」
 リリーが亡くなったあとも、同じシャンプーを使っていることに特に理由はない。ただ他のシャンプーにしようと思わなかっただけだ。
「セブルスは、薬品の匂いがする……」
「……仕事で使うからな」
 アイリスは目を閉じた。視覚が消えれば、セブルスの存在をより強く感じた。
 彼の腕の中は、どうしてこんなに安心するのだろう。無意識に求めていた平穏がここにあった。生徒の大部分から怖がられたり、嫌われているセブルスの腕の中に。
 アイリスはふっと笑って、彼の胸板に頬を擦り寄せた。これは自分だけに許された特権だ。他の誰にも、この居場所を見つけることはできないし、何よりセブルスが許さない。

 それからアイリスは、月に一、二度ほどセブルスの元を訪れては話をし、そして抱きしめあった。一度だけと最初は言っていたセブルスも、自分と同じ感想を抱いたらしく、アイリスを拒絶しなかった。
 OWLの勉強にもアイリスは没頭したが、セブルスとの逢瀬はやめなかった。彼はやはり魔法薬学だけでなく、ほとんどの科目において深い知識を示した。そのひとつがパトローナスだった。
「……パトローナスは、自分の心の状態を表すって書いてあった」
 隣同士で座りながら、セブルスにこないだ読んだ本の内容を言う。
「……そうだな」
「私、自分がどんなパトローナスを出すか、やってみたい」
 アイリスは杖を取り出し、楽しかった記憶を思い出しながら「エクスペクト・パトローナム」と唱えた。しかし杖からは何も出てこない。
「あれ……?」
「……本当に幸せだった記憶を、ありありと思い起こさなければ何も出てこない」
「ありありと、か……セブルス、やってみて」
 何の気なしに言うと、「なぜ私が」とセブルスは渋い顔をした。
「お手本を見てみたいの、お願い」
「…………」
 セブルスは無言で杖を振った。すると銀色のもやが現れ、牝鹿を形作った。ジェームズが牡鹿に変身できたことを知っているアイリスは、その牝鹿がリリーを現しているとわかった。やはりセブルスの中には、リリーが今もいるのだろう。
 アイリスは、精一杯楽しかった記憶を思い起こした。箒を離さないハリーに、ジェームズがこの子は絶対にシーカーになると親バカを発揮して、スニッチのレプリカを買ってきたこと。それをリリーと一緒に笑ったこと。リリーから化粧を教わったときのこと。リリーとセブルスと三人で過ごした夏の日々のこと。
 呪文を言いながら杖を振ると、今度はもやが出てきた。そしてそのもやは、うさぎの形になった。飛び跳ねているのがかわいらしい。
 自分のパトローナスはうさぎなのだと知り、アイリスはほっとした。もしセブルスと同じ牝鹿だったのなら、今もリリーに囚われているということだった。しかしそうではなかった。アイリスの独自のパトローナスが現れたのだ。
「……うさぎ、可愛いね。うさぎでよかった」
 杖をしまって、セブルスにぽつりと言う。彼は「そうだな」と相づちを打った。
 
 学期末にOWLが終わり、孤独な夏休みを過ごすと、アイリスは六年生になった。
 歓迎会の日の夜、アイリスはセブルスに会おうと地下に降りたが、そこに偶然アビントンがいた。取り巻きはおらず一人だった。無言で通り過ぎようとしたとき、おい、と呼びかけられた。
「お前、スネイプの部屋によく行ってるらしいな?」
 アイリスはぎょっとして振り返った。アビントンはその反応を楽しむように、嘲りを浮かべた。
「去年、あいつが俺に怒ったのは、お前がスネイプを取り込んだからだな? 穢れた血の考えることだ……部屋で何してる?」
「……何もしてないわ。魔法薬学のわからないところを聞いてるだけよ」
 こういった事態に備えて、アイリスは必ず教科書を持って行くようにしていた。それを掲げると、アビントンはつまらなそうに鼻を鳴らし、去って行った。おそらく信じてくれただろう。セブルスの部屋に行くのはやめた方がいいと感じ、アビントンの姿が見えなくなるまで待つと、階段を上った。しばらく、彼の部屋には近づかない方がいいだろう。
 学期の最初に、マクゴナガル先生と面談することになっていた。六年にもなると授業は選択制になる。将来を決めるための面談だった。向かいに座るマクゴナガル先生は、縁のない眼鏡を押し上げ、言った。
「ミス・エヴァンス、あなたは全ての科目において良以上を取っています。特に魔法薬学、呪文学に突出しているようですね。フリットウィック先生がこないだ、あなたのことを褒めてましたよ」
「ありがとうございます」
「成績がいいと、それだけ視野も広がります。ヒーラーは難しいと思いますが、ほとんどの職を目指せるでしょう……何かなりたい職業はありますか?」
 なりたい職業と聞いて、アイリスは何も浮かばなかった。成績がいいのは単純に魔法が好きで、知りたいという好奇心から勉強に没頭しただけだ。
 そもそも自分がホグワーツを卒業するのだという実感がなかった。ずっと未成年としてここで守られたいし、学び続けたいと思ってしまう。何より、セブルスと離れることが信じられなかった。せっかく繋がった縁も、居場所も、なくなってしまうなど考えられなかった。
「……ここで研究職は、できませんか?」
 口から出てきたのは苦し紛れの提案だった。マクゴナガル先生は目を丸くして、それから困ったように言った。
「……それは校長に聞いてみなければわかりませんが、教師になるということですか? 生憎空きはないと思いますが」
「教師にはなれなくとも……例えば、魔法薬学の助手などはできませんか?」
 アイリスは引き下がった。どうしてもホグワーツに残りたかった。マクゴナガル先生は気難しげに眉を顰めた。
「……今まで助手というものを、ホグワーツでは雇っていなかったと思います。許可が出るかはわかりませんが、校長には一応話しておきます……魔法薬学がいいのですね?」
「……呪文学でも、どちらでも構いません」
「わかりました……でしたらまず校長に話して、それからまた面談しましょう。結果はその時に伝えます」
「……ありがとうございます」
 アイリスは立ち上がってお辞儀すると、部屋を出た。どうしようもなく子供っぽいわがままを言っているという認識はあった。マクゴナガル先生に申し訳なく思いながらも、アイリスはやはり、ホグワーツを離れたくはなかった。
「面談どうだった?」
 大広間で夕飯を食べている最中、サラが尋ねてきた。
「……ここで助手をやりたいって言ったら、校長に掛け合ってみるって言ってくれた」
「助手? 教師みたいなものになるってこと?」
「そう」と頷く。
「へえ、意外。でも教職は向いてるかもしれないわね。アイリス、人に教えるの上手だから」
「……そうかな?」
「そうだよ」とポールが言う。
アイリスならきっと、ダンブルドアは許可してくれるよ」
「……だといいんだけど」
 ハイ・テーブルを見上げれば、中央に長い髭を蓄えたダンブルドアが座っている。遠い位置だったけれど、彼と目が合ったような気がした。
 ――まさかね。
 アイリスは気のせいと片付けて、目の前のローストビーフをナイフで刻むことに集中した。
 後日、マクゴナガル先生から呼び出され、再び彼女の部屋を訪れた。緊張しながら座ると、彼女は校長から許可が下りたと言った。
「あなたは全体的に成績もいいですし、素行も良好です。それらを鑑みて、卒業後の助手の許可が下りました」
「ありがとうございます……!」
 アイリスは深々と頭を下げた。
「教科は魔法薬学です……ミス・エヴァンス」
 改めて名前を呼ばれ、背筋を伸ばす。
「はい」
「あなたは教師ではないですが、それに準ずる立場の者になります。セブルスの手助けをする他、生徒の面倒を見て、導くことがあなたの仕事です……できますね?」
 アイリスは「はい」としっかりと返事をした。マクゴナガル先生は珍しく笑みを浮かべた。
「……よろしい。期待してますよ、エヴァンス」
 サラたちに結果を報告すると、まるで自分のことのように喜んでくれた。そしてアイリスは、六年になってから一度も行っていなかったセブルスの元を訪ねた。
「……私のこと、聞いた?」
 アイリスはセブルスの体温を感じながら尋ねた。ずっと恋しく思っていた居場所はやはり心地よく、最初からひとつだったかのようにぴたりと合った。アイリスの金糸を指で梳いていたセブルスは「ああ」と言った。
「私の助手になる話だろう? 校長から聞いた」
「……何も相談しなくて、ごめんなさい」
「別にいいが……まあ、欲を言えば先に話してほしかった」
「ごめんなさい」ともう一度謝る。
「アビントンが、私とセブルスの関係を怪しんでたから、やめてたの……本当は休暇が明けてすぐに、セブルスとこうしたかった」
 そう言うと、セブルスは髪を梳く指を止めた。
「君は……」
「なに?」
「……いや、何でもない」
 再び髪をゆっくりと梳かれる。優しい手つきに、アイリスは目を細めた。
「……卒業したら、セブルスと会えなくなっちゃうから、助手になりたいと思ったの。まさか、魔法薬学の助手ができるとは思わなかったけど」
「……そうだな、私も驚いた。何の科目の助手がしたいとは言わなかったのか?」
「魔法薬学か、呪文学って言ったわ。OWLで優を取った科目だから」
「……私は魔法薬学しか見ていないが、確かに君は薬学において、才能があるように思う」
 アイリスは体を少し離して、セブルスを見上げた。彼は穏やかな目をしていた。他の生徒には向けない、自分だけの瞳。その奥にある熱を見つけて、アイリスは再び彼の胸に顔を寄せた。「ありがとう」と呟く。
 こうして見て見ぬ振りをするのも、もう何度目だろう。
 
 六年にもなると、周りはカップルばかりになり、サラとポールもついに付き合うことになったと聞かされた。互いに好き合っていることはわかっていたから、アイリスは驚かなかった。
「おめでとう……末永くね」
「ふふ、それ私たち結婚するみたいじゃない」
「確かに」
 午後の談話室は緩やかな空気が漂っていた。暖炉からはぱちぱちと薪が爆ぜる音がする。談話室にいるのは六、七年生だけで、アイリスたちはその一角で話をしていた。
アイリスは彼氏作らないの?」
「うーん、私はいいかな……」
「えー、勿体ない。アイリスは美人だし、性格も頭もいいし、彼氏になりたい男なんてごまんといるでしょ」
「そういえば、こないだハッフルパフのウィリアムがアイリスに告白したって聞いたよ」
 ポールが余計なことを言う。
「えっ、ほんと? なんて返事したの?」
 アイリスはうんざりしながら答えた。
「……ウィリアムのこと、よく知らないからそういう関係は考えられないって言った」
「わー、残酷な答え!」
「そうなの? でも正直に答えたくて……相手も自分と向き合ってくれてるから」
「うーん」とサラとポールは腕組みした。
「まあ、それもそうなんだけど、うん……」
アイリスらしいと言えばらしいか……」
「……やっぱり、もうちょっと相手を思って伝えればよかったかな?」
「それが一番だろうけど……ま、アイリスの好きにすればいいと思うよ」
「そうね、私たちが口出すことじゃないわね」
 二人は頷き合った。二人の様子を見て、今度は返事に気をつけようと改めて思った。相手とまっすぐ向き合うのもいいけれど、それが相手を傷つけることにもなるかもしれない。
 その機会は意外とすぐにやってきた。
 クリスマス休暇が終わり、寒さが厳しくなってきた頃、朝食の席で自分宛の手紙が届いた。開いてみると、のびのびとした字でこう書かれていた。

 伝えたいことがあるので、今日の二〇時に地下の空き教室に来てほしい。 レオ・ジョーンズ

 視線を感じて顔を上げれば、レイブンクローのテーブルからジョーンズがこちらににこやかに手を振っていた。アイリスは作り笑いを返す。
 いやな予感がした。ジョーンズは顔が整っていて、背も高く、クィディッチの選手としても活躍している。しかし彼の癇癪持ちと女癖の悪さは有名だった。女性に手をあげたことも噂で聞いている。
 サラたちに相談しようかと思ったが、アイリスはそうしなかった。心配をかけたくなかったし、いざというときに自分を守れる魔法も知っていたからだ。不安に思いながら日中を過ごし、そして、約束の時間になった。
 空き教室の扉を開けると、すでにジョーンズは中にいた。机に腰掛けていた彼は、こちらを見て立ち上がった。
「やあ、アイリス。来てくれてありがとう」
「ううん……」
 扉を開けたままにしておこうとしたが、閉めてくれと言われて仕方なく閉める。
「……伝えたいことって?」
「僕と、付き合って欲しいんだ」
 ジョーンズは笑顔で言った。自分が断るとは思っていないようで、自信に満ち溢れていた。
「君とは前に、薬草学で一緒になったりしただろう?」
「……うん」
「その時に君から教わったりしてさ……すごくありがたかった」
「うん……」
「いつからか好きになってたんだ。自然と君を目で追うようになってた……僕は君の容貌に惚れたんじゃなくて、中身に惚れたんだ」
 そこまで話したこともないというのに、ジョーンズはそんなことを宣った。アイリスは随分調子のいい人だなと思いながら、頷いた。
「……僕と、付き合ってくれるよね?」
 有無を言わさぬような口調で彼は言った。アイリスは気づかれないように、右手をローブの中に入れ、杖を掴んだ。
「……残念だけど、付き合えないわ」
 ジョーンズの顔から笑みが消えた。
「……どうしてだい?」
「私は……好きな人がいるの」
 断るためについた嘘だったが、言った瞬間、なぜかセブルスが浮かんだ。思わぬ思考に、アイリスは一瞬油断した。
「エクスペリアームス!」
 ジョーンズの呪文で、持っていた杖が吹き飛んだ。いつの間にか杖を持つ彼は、そのままこちらに杖先を向けている。
「どいつだい? それは」
「……ジョーンズ、やめて」
「君が答えるまで杖は下ろさないよ……ほら、答えて」
 こちらににじり寄ってくるジョーンズに、アイリスは後ずさりした。杖がなくなっては、抵抗する術はなかった。やがて壁にぶつかる。
「杖を下ろして、ジョーンズ」
「下ろして欲しければ答えなよ……ほら、言わなければ呪いをかけるよ。三、二――」
 ジョーンズはカウントを始めた。適当に答えようと思い、口を開いた。その時だった。
「……何をしている?」
 前の扉が開き、セブルスが入ってきた。慌てたようにジョーンズが杖を下ろすも、セブルスがその動きを見逃すはずもなかった。セブルスは床に落ちていたアイリスの杖を手に取り、言った。
「……丸腰のエヴァンスに呪文をかけようとしたな。レイブンクロー三〇点減点」
 ジョーンズは「すみません」と謝り、逃げ去っていった。こちらに近づいてきたセブルスに、「ありがとう」と礼を言う。
「怪我はないか?」
 渡された杖を取りながら、アイリスは笑みを作る。
「大丈夫」
「……なぜこんなところに二人でいた?」
「ジョーンズに呼び出されて、それで……告白されたの。私が好きな人がいるって嘘をついて断ったら、その人の名前を答えないと呪いをかけるって言われて……」
「……武装解除の呪文もかけられたのか」
「うん……ちょっと油断しちゃった」
 軽く笑ったものの、セブルスの顔は険しいままだった。セブルスの手がこちらに伸び、アイリスの頬に触れた。
「……笑みを作るな。怖かったのなら怖かったと言え」
 セブルスの言葉に、隠していた感情が湧き上がった。アイリスは頬にあるセブルスの手に、自分の手を重ねた。知らず知らず指先が震える。
「うん……ちょっと、怖かった」
 セブルスは頬から手を離すと、アイリスの手を握った。彼の手はいつも以上に温かく、それだけ自分の手が冷たくなっていることを悟る。
「……私の部屋に来なさい。温かいものを出そう」
「うん……」
 セブルスの後について、彼の研究室に入る。セブルスは魔法でお茶を沸かし、ソファに座るアイリスの前にカップを置いてくれた。ありがとうと言ってひとくち飲む。アールグレイの紅茶は程よい温度で、温かさが全身に染み渡るようだった。
「落ち着いたか?」
「うん……セブルスは、どうして私たちに気づいたの?」
 隣に座るセブルスに問いかける。空き教室は使われていないため、中に入る用はないはずだった。
「たまたま通りがかったら、君とジョーンズの声が聞こえてな……ただならぬ様子だったから中に入った」
「そっか……」
「……君は、よく告白されるのか?」
 アイリスははっとセブルスを見た。その表情はまだどこか険しい。
「ううん……さっきのを入れると二人だよ。どうして?」
「いや……君が誰かと付き合う時が来たら、こうして会うのはやめた方がいいと思ってな」
 セブルスは無感情に言った。
「……そんな時は来ないよ」
 断言したアイリスに、セブルスはわずかに目を見開いた。
「そんな時は来ないから、だから……一緒にいよう?」
アイリス……」
 名前を呼ばれたことに驚いた。授業ではラストネームで呼ばれるし、二人で会う時も「君」としか呼ばれていなかった。セブルスの声で名前を呼ばれることは、悪くなかった。むしろ、胸が高鳴った。
 セブルスに抱きしめられながら、アイリスは目を閉じた。好きな人と言って、浮かんだ人物もセブルスだった。
 ――よりによって、セブルスを……。
 アイリスは、自分の気持ちに蓋をすることに決めた。まずセブルスは教師で、自分は生徒だ。そしてセブルスは、リリーのことを今も思っている。正確には、自分を通してリリーを見ている。リリーに勝てる要素など、アイリスは何も持ち合わせていなかった。

 
 三
 
 七年生に上がったアイリスは、他の七年生と同じく、NEWTの勉強に勤しんだ。魔法薬学の助手になることは確定していたが、ダンブルドアとマクゴナガル先生の手前、良い結果を残さなければならない。
 自然とセブルスの元へ行く頻度も減った。自分の気持ちを自覚してから、少し距離を置いた方がいいのではないかと考えていたため、いい機会に思えた。セブルスも自分の忙しさに気づいているらしく、何も言っては来なかった。
 ハロウィーンの日は、薄曇りだった。談話室に降りると、例年通り誰もおらずしんとしていた。アイリスはファットレディの肖像画を通り、早朝の中庭へ出た。
 一〇月の朝の、透き通った空気を歩く。中庭に百合の花が咲くことを知ったのは、二年の頃だった。秋に咲くその百合の名は、シンテッポウユリ。純白のラッパ状の花は緑に囲まれた中庭の中で、存在感を放っている。アイリスは持ってきたハサミで茎を切った。
「……エヴァンス」
 ふと後ろから呼びかけられ、どきりとした。振り向くと、やはりセブルスが立っていた。温室に行っていたようで、球根が大量に入った袋を持っている。
「百合の花か」
「はい……毎年、ここの百合を切って、自分の部屋に飾るんです」
「……そうか」
 セブルスは目を伏せた。
「……先生も、百合を持っていきますか?」
 百合の花はもうひとつ咲いている。尋ねると、セブルスは首を振った。
「いや、いい……」
 アイリスはその返事を意外に思った。リリーを思うセブルスであれば、百合が欲しいと言うだろうと思っていた。
「そうですか……」
「では、また授業で」
「はい、また」
 アイリスは、去っていくセブルスをぼんやりと見つめた。大股で風を切るように歩く彼の後ろで、黒のマントがたなびく。
 ――リリーへの気持ちが、変化してる……?
 甘い期待が湧き上がったが、アイリスはすぐに都合のいい妄想だと片付けた。セブルスは元々、毎年ハロウィーンの日に、特別なことをしないのかもしれない。もしかしたら、花屋で百合やそれ以外の花を買っているのかもしれない。それはセブルスにしかわからないことだ。
 アイリスはため息をついた。自分に向くことのない相手を想うのは、なんて苦しくて、なんて不毛なのだろう。

 四

 無事にホグワーツを卒業したアイリスは、夏休みに入り、助手として働く準備をしていた。例えば自分の部屋とホグワーツの部屋を往復して持ち物を持ってきたり、書類を書いたりと、やることは多くあった。
 ホグワーツで与えられた部屋は、地下の一室だった。セブルスの部屋が手前とすれば、アイリスの部屋はその一番奥になる。本音を言えば地下は苦手だったが、そんなことは言えるわけもなく、アイリスはせめて自分の部屋だけは明るくしようとシャンデリアを天井につけた。最初の状態に比べたら、女性らしい可愛い部屋になったと思う。
 窓がないのも、地下が嫌だった理由だった。陽の光は生活において大事なものだった。かといって大広間のように、今日の空を天井で示す荘厳な魔法が使えるわけもなく、アイリスは陽光のような、あたたかい光をシャンデリアから照らそうとした。『魔法で凝るインテリア』を読みながら四苦八苦していると、ドアがノックされた。近寄って扉を開けば、マクゴナガル先生が立っていた。
「ああ、マクゴナガル先生……どうされました?」
「校長があなたを呼んでます。合言葉はフィジーウィズビーズです」
「わかりました、今行きます」
 脱いでいたローブを羽織り、校長室へ向かう。思えばダンブルドアと二人で話すのは、リリーたちの葬儀以来だ。助手にしてもらったのだから、もっと早く自分から挨拶をすべきだったと後悔しながら、ガーゴイル像に合言葉を言うと、階段をあがった。
 ノックをして入ると、ダンブルドアの青い瞳と目が合った。
「……こんにちは、ダンブルドア先生」
「急に呼び出して悪いのう、アイリス。ホグワーツに住むための準備はどうじゃ?」
「あらかた終わりました」
 椅子を手で示され、アイリスは座る。ダンブルドアも自分の椅子に座った。
「先生、私を助手にしてくださり、ありがとうございます」
 アイリスは深々とお辞儀した。
「お礼を言うのが遅くなり、申し訳ありません……」
「いやいや、そんなことはいい……君と少し、セブルスの話をしたくてね」
「セブルスの……?」
 顔を上げたアイリスに、ダンブルドアは頷く。
「そうじゃ。彼の使命について、少しな」
「使命……」
 セブルスがダンブルドアから何かを頼まれて、ホグワーツに来たことは、彼から聞いていた。内容については話してくれなかった。ダンブルドアはゆっくりと口を開いた。
「……セブルスには、ハリーをヴォルデモートから守ってほしいと言っておる」
 その名前を聞いた瞬間、震えが走った。リリーとジェームズを殺した巨悪。
「……例のあの人は、ハリーによって死んだのではないですか?」
「確かに肉体は滅んだが、魂は残っていると私は思う。復活したヴォルデモートは、真っ先にハリーを狙う……その時のために、セブルスにはハリーを守るよう頼んである」
「それは……ハリーを守ったリリーのために?」
 こちらを向く青い瞳がきらめいた。
「さよう……そしてハリーの家族である、君のためでもある」
 アイリスははっとした。ハリーと四人で暮らしていた日々が蘇る。やんちゃなハリーに世話を焼いたが、笑いが絶えなかった日々。
「……ハリーは、元気ですか?」
「……恐らく、元気じゃろう。ペチュニアはちゃんと世話をしているはずじゃ」
「ハリーはダーズリー家で暮らすのがいいと、思いますか?」
 ダンブルドアはじっとこちらを見た。その瞳は静かに凪いでいた。
 ずっと気にとめていたことだった。魔法嫌いのペチュニアと、同じく典型的なマグルのバーノンの元で暮らすハリーは、きっと幸せとは言えない生活をしているだろう。せめてハリーに手紙を送れればと思うものの、ダーズリー家との交流は拒絶されている。
「……君が、ハリーを養おうと?」
「はい……あまり現実的ではないですが……」
 自分の力で稼げるようになれば、いずれハリーを養子に迎えようと思っていた。ダンブルドアはふむ、と顎に手をやった。
「そうじゃな、ハリーはまだまだ幼い……休暇以外をホグワーツで過ごさなければならないアイリスでは、育てるのは難しいじゃろう」
「……そうですよね」
「それに、私はマグルの世界で育った方がいいと思っておる。魔法界で育てば、生き残った男の子としてちやほやされて、思い上がった子供になってしまうじゃろう」
 アイリスは想像して、くすりと笑った。
「それは、確かにそうですが……育てる親にもよるのではないですか?」
 ダンブルドアもまた悪戯っぽく笑った。
「そうじゃな……アイリスならば、ちゃんと躾できるじゃろう。だが、その時は今ではないと、私は思う」
 澄んだ目で見つめられ、アイリスは頷いた。アイリス自身もわかっていたことだった。
「……わかりました」
「私からの話は以上じゃが……何か聞きたいことはあるかね?」
「聞きたいことというか、提案なんですが……私にも、ハリーを守るという使命を負わせてください」
 ダンブルドアは驚いたように眉をあげた。アイリスは続ける。
「私はリリーの妹で、ハリーとも血が繋がっています。本当に赤ちゃんのときですが、ハリーと暮らしたこともあります。私にできることがあるかは疑問です。でも、ハリーを思う気持ちは大きい――ハリーを守らせてください……セブルスと一緒に」
 最後に呟いた言葉は、静かな校長室に余韻を持って響いた。ダンブルドアは頷いた。
「君にできることは多くある……そう言ってくれてありがとう、アイリス。君がよければ、ハリーを守ってもらいたい」
 ダンブルドアは自分の提案を受け入れてくれた。ほっとすると同時に、例のあの人と戦うのだと、恐ろしい緊張がこみ上げ、唾を飲んだ。
 ハリーが入学するのはあと七年後。それまでに知識を増やして、戦いにも強くなっておかなければ。アイリスはぎゅっと左手を握った。その様子を、ダンブルドアは静かに見つめていた。

 魔法薬学の助手としての仕事は多くあった。スプラウト先生から魔法薬で使う薬草をもらってきたり、材料の発注をしたりと、アイリスは毎日忙しく働いた。これをすべてセブルスは一人でこなしていたのかと驚くほどだ。
 セブルスとは必然的に二人きりになることが多かった。授業中はもちろん、セブルスの研究室でも、よく二人きりで作業した。アイリスはまだ魔法薬のすべてを知っている訳ではないため、セブルスに聞くことがあり、二人でいた方が効率がよかった。
 セブルスと触れ合うことはなかった。アイリスはそれをしないと決めていた。セブルスと抱きしめ合ったところで、彼はリリーを思っていることを再確認するだけだ。自分が虚しくなるだけならば、最初からしない方がいい。
 セブルスは触れなくなった自分を、どう思っているのかわからなかった。彼から抱きしめられることもなく、ただ上司として彼は自分と接した。夜遅くまで作業し、アイリスがおやすみと研究室を出ていこうとしても、引き止められることはなかった。恋人でもないので当然と言えば当然だが。
 アイリスは部屋で一人、泣くこともあった。セブルスの顔をもう見たくないと思う夜もあった。けれど朝になれば、嫌でもセブルスと顔を合わせる。そして否が応でもわかるのだ。彼がリリーだけを見ていることを。この思いをなかったことにしようと努力しても、毎日、彼の魔法薬に関する知識の深さや、穏やかな眼差しを間近で目にし、それは日を追うごとにますます強くなっていった。どうしてセブルスを好きになったのだろうと、自問自答する日々だった。リリーの言う恋は、こんなにつらいものなのだろうか。
 アイリスはなるべくセブルスのことを考えないように、魔法薬学と闇の魔術に没頭した。ハリーを守るという使命をもらった今、暇さえあれば図書館に向かって本を読んだ。助手ともなれば、禁じられた本も自由に読むことができた。敵を倒すにはまず相手を知ること。例のあの人の使う闇魔術に対抗する術を、闇魔術をよく知ることで確立しようとした。
 そんなある日のことだった。
 アイリスは研究室で、生徒たちの作った魔法薬を確認していた。全学年、授業のたびに薬を作らせるので、ほとんどをこの作業に毎日費やしていた。アイリスは薬を光に透かしたりしながら、羊皮紙に評価を書いた。
「……これはEでなくAでいい」
 机で採点をしていたはずのセブルスが、いつの間にか傍に来ていた。はい、とアイリスは文字を消して、Aに直す。机に戻ると思っていたが、セブルスはアイリスの隣に腰を下ろした。
 休憩だろうか。久しい距離にどぎまぎしながら、どうしたのかと首を傾げると、セブルスは言った。
「……こないだ、図書館で君を見かけた」
 本に没頭しているところを見られていたらしい。
「禁書を読んでいるようだったが、闇の魔術に興味があるのか?」
 セブルスの問いに、アイリスは正直に答えた。隠していても仕方がない。
「……例のあの人からハリーを守るために、闇の魔術を知ろうと思ったの」
「……ダンブルドアから言われたのか?」
「ううん……セブルスがハリーを守るためにここに来たことを聞いて、自分から志願した。私はハリーの家族だし、守りたいと思ったから……ハリーが入学してくるまでに、色んなことを吸収して、戦えるようにならないと」
 そう語ると、セブルスは言った。
「そこまで根を詰める必要はない。君は今のままでも十分戦えるだろう……あまり無理をすれば身体も壊れてしまう」
 図書館に通いつめていることは見破られているようで、その声と表情に、気遣うような優しさが含まれていた。アイリスは目を逸らす。同時に、怒りが込み上げてきた。セブルスが見ているのはリリーの幻影で、だからこそ自分に優しくするのだ。もう、うんざりだった。セブルスの態度に一喜一憂するのも、セブルスを選ばなかったリリーを恨んでしまうことも。
「……私を、そんな目で見るのはやめて」
 セブルスは目を見開いた。アイリスは気にせず続ける。
「私は、リリーじゃない。見た目は似てるけど、リリーじゃない。私は私なの。だからそんな、熱のこもった目で見るのはやめて」
 言ってしまった、と思った。こんなことを言えば、セブルスとの関係も気まずくなるかもしれない。そう思って堪えていた言葉を、口にしてしまった。
 セブルスはこちらをじっと見て、二、三度瞬きをすると、ゆっくりと口を開いた。
「……確かに君は、リリーとは違う。外見は似ているが、笑い方や仕草は全く違う。前に君も言っていたように、性格も違う。リリーが太陽ならば、君は月のような落ち着きがある……感情の起伏が少なく、穏やかで、共にいて心地いい」
 今度はアイリスが、セブルスの言葉に驚く番だった。そんなことを言われたら、期待してしまう。それに続く言葉を。
「最初は君の言う通り、君の中にリリーを見ていた。しかし、いつの間にか君自身に惹かれていた……アイリス、私は君が好きだ」
 一瞬、何と言われたのかわからなかった。それからゆっくりと彼の言葉を反芻し、驚くと同時に、喜びの感情が現れ、そしてそれを上回るように不安がわき上がってきた。アイリスは「本当に?」と眉を下げた。
「本当に、私が好きなの? リリーじゃなくて、私なの? 外見がリリーに似てるから、好きになったんじゃなくて?」
「それは違う」とセブルスは即答した。
「君は確かにリリーに似て美しいが、私は君の内面を好きになった。褒めると恥ずかしそうに微笑む初々しさや、純粋な心に惚れたんだ……私はアイリスが好きだ。アイリスだからこそ、好きになれた」
 セブルスは杖を振った。銀色のもやが杖先から現れたかと思えば、うさぎに形を変え、駆けていった。その光景が嘘のようで、何も言えないアイリスに、セブルスは真剣に言った。
「……これでも、信じられないか?」
 アイリスは首を振った。セブルスは自分を、リリーと重ねてはいない。信じられないが、事実だった。アイリスもまた杖を振ってパトローナスを出した。うさぎではなく、蝙蝠が羽ばたいていく。
「……私もセブルスが好きよ。すごく、すごく好き」
アイリス
 そっと抱き寄せられ、アイリスは彼の背中に腕を回した。久しぶりに感じる体温、薬品の匂い、心臓の音。セブルスはアイリスの髪に鼻を埋めながら言った。
「……シャンプーも、香水も変えたのか」
「……うん。好きな匂いじゃなかった?」
「いや、好きな匂いだ。アイリスらしい、可愛らしい匂いだ」
 アイリスは顔を上げた。頬を優しく撫でられ、目を細める。近づいてくるセブルスの黒い瞳に、自分が写っているのがわかった。その瞳はリリーではなく、ただ自分だけを見ていた。

 
 五

 セブルスと付き合い始めて、アイリスは今まで彼をあまりわかっていなかったことを知った。セブルスほど愛の深い人は、なかなかいないのではないだろうか。当たり前のように、愛の言葉を毎日囁いてくれたし、失敗や欠点なども含めて、自分のあるがままを愛してくれた。
 また、皆と同じく弱い部分も持っていた。リリーに穢れた血と言ってしまったことを今も悔いていたし、ジェームズに対する憎悪は驚くものだった。セブルスは思っていた以上に、過去に囚われていた。その過去を塗り替えるほど、自分と過ごす日々が幸せであるようにと、アイリスは努めたが、その努力を見破られた。
アイリス、君は自然体のままでいい」
 優しくアイリスの肩を抱きながら、セブルスは言った。
「無理して私を楽しませようとしなくていい……ありのままの君といるだけで、私は幸せだ」
 セブルスは、自分という存在を深く理解してくれていることがわかり、アイリスは嬉しさで胸がいっぱいになった。
 そうして二年が経ち、アイリスが二〇歳になった頃、セブルスの神経を逆撫でする、あることが起こった。
 魔法薬学の教師はセブルスであり、本来ならばセブルスにわからないところは聞く方がいいのだが、やはりアイリスの方が聞きやすいのか、アイリスの部屋に出入りする生徒は多かった。その中のひとりに、急に言われたのだ。アイリスはセブルスと付き合っているのか、と。
「……私、そんなこと言われてびっくりしちゃった。正直に頷いたら、なんだかショックを受けたみたいで、早々と部屋を出ていったわ」
 浴室に自分の声が反響する。湯船の中、アイリスは思い出してくすりと笑った。しかし、後ろから自分の腰元を抱いているセブルスは、何も返事をしなかった。気になって振り返る。彼の眉間は、これでもかというくらいに寄せられていた。
「あ……そのことは誰にも言わないでって、ちゃんと釘を刺しといたわ。だから大丈夫だと思う……」
「……アイリス
 名前を呼ばれて、軽く口付けされる。離れると、いつも以上に真剣な目があった。
「……結婚しよう」
「えっ……?」
 今なんと言ったのだろう。あまりに現実味がなく、聞き返せば、セブルスはもう一度言った。
「私と結婚してほしい、アイリス……君の返事は……?」
 考えるより先に、体が動いていた。アイリスはざばっと体をセブルスの方に向け、首元に腕を回した。
「もちろん、OKよ……」
 今度は自分から口付ける。数回唇を合わせ、ぴたりと身体を密着させる。セブルスの鼓動はいつもより速かった。自分の心臓も同じく、ばくばくと鳴っている。合わさった胸は、共鳴するように二人の心臓分の鼓動を響かせる。
「……私と夫婦になれば、いつか、ダークロードに見えることになるかもしれん。それでもいいのか……?」
 セブルスがダークロードと呼ぶその人は、リリーとジェームズを殺した。込み上げてくる怒りをごまかすように、アイリスは一層セブルスにしがみつく。
「……大丈夫。セブルスも、ハリーの義理の叔父になるけど、大丈夫?」
「……その子はポッター似かね?」
「そうね……赤ちゃんの時は癖っ毛だったわ」
「…………」
 セブルスは無言になった。考えている、と気づき、アイリスは笑ってしまった。
「……そんなに嫌なら、やめる?」
「いや」
 セブルスは、自分が首に回していた左腕を取ると、その薬指に口付けた。
「私は君がいなければ生きていけない……アイリスと共に、残りの人生を歩きたい」
 顔に熱が集まるのを感じた。セブルスといつか結婚できたら、と思っていたことが、現実になったとようやく実感する。アイリスは顔を隠すように、セブルスに口付けた。
「……私も、セブルスがいなきゃ生きていけない。大好きよ、セブルス」
「ああ……愛している、アイリス
 今度はセブルスから口付けられ、アイリスはうっとりと目を瞑る。夢のようだった。これからセブルスと二人で人生を歩む。ずっとずっと、一緒なのだ。
 ハリーのこと、そして例のあの人のことが頭をよぎったが、今はそんな心配をしても何の得もない。それは起こるかもしれないし、もしかしたら起こらないかもしれない。起こるかどうかわからない不確実なことよりも、目の前にある幸福を取りたいと思った。