凧が一番高く上がるのは、風に向かっている時である。風に流されている時ではない
良い人たちだと思った。
転校してきたばかりの自分に、優しくしてくれて。友達ができたと喜んでいたのに。
「ナナちゃん。ほら、行こう……?」
目の前の光景に愕然とするナナの後ろから、友達がひそひそと声をかける。その信じられない言葉に振り向けば、クラスの皆はほとんどいなくなっていた。戸口に立つ皆は、この不快な笑い声が聞こえないのか、そちらに目を向けようともしない。
どうして。ナナにはわからない。どうして止めないの。なぜ知らんぷりするの。
「ね、行こ」
声をかけてきた子が、腕を取って教室の外に引こうとする。彼らと同じように、見て見ぬふりをすることはできない。衝動的にその手を払った。
「止めにいかないと……!」
足を踏み出せば、また後ろから阻まれる。むっとして振り返ると、その子は申し訳なさそうに、しかし腕を掴む力は緩めずに囁いた。
「……ダメだよ」
「どうして? みんな、おかしいよ、何で誰も止めないの?」
こうしている間にも、あの子が上履きで汚れていく。すぐに止めたい一心で、八つ当たり気味に感情をぶつければ。彼女は掴む手に力を込め、怯むことなく言った。
「……止めたら、自分がいじめられるからだよ」
それは、子供たちが知るにはまだ早すぎる、残酷な事実だった。抵抗心がすっと霧のように薄れ、振りほどこうとしていた手が止まる。
気づきたくなかったこと。知りたくなかったこと。
事実を突きつけられ、呆然と立ち尽くすナナの手を、彼女が引いた。その時だった。
「止めるんだ!」
教室へ、一人の男子児童が駆け込んできた。彼は泣きじゃくる子と、足蹴りしていた子の間へ割り込み、両手を広げて立ち塞がる。少し長い黒髪に、黒縁眼鏡越しの強い眼差し。名札には、学級委員の証である星がつけられている。
――魅上照。
ナナが転校して、最初に話しかけてくれた子だった。
「はっ、またお前かよ」
「やられたくて来てんじゃねーの?」
まったく気後れすることなく、魅上たちを囲う四人はげらげらと笑う。そして、今度は魅上へ対象を変えた。一人は髪を引き、一人は腹を蹴り、一人は頭を叩き、一人は倒れそうになる魅上を強引に掴む。今まで以上にひどい暴力に、目を背けたくなるのを堪えながら、ナナは魅上を見つめた。彼はあの子のように泣きもせず、抵抗もせず、暴力に身を任せている――あの子を庇うために。
黒い瞳には、涙の代わりに確固とした意志があった。
自分が数分前に放棄した意志。強い信念が。
*
窓から入る西日が、リノニウムの廊下を橙に染めていた。先ほど委員会の仕事を終えたナナも、白いセーラーを夕陽色に染めながら廊下を歩く。人気がないのは放課後だからだとも言えるが、クラスのない西校舎であることがもっともな理由だろう。理科の先生に頼まれ、ナナはプリントを取りに理科室へ歩いていた。
購買部を閉め、帰ろうとしていたところ、先生にばったり会ってしまった。正直早く帰りたかったものの、断らず引き受けてしまった。そんな自分が嫌になる。教師や大人たちに良い顔をすれば、悪いことにはならないし、内申もよくなるかもしれない。自分の根底には処世術とも言える小狡い考えが常にあり、度々表に顔を出してくる。
早く終わらせようと足を速める。今日は、父親の誕生日だ。早く帰って、母親の料理を手伝わなければならない。自分も唐揚げ作りを任されている。自分が遅くなれば、夕食の時間も遅れてしまう。条件反射で引き受けたことを、すでに後悔し始めていた。
速足で歩くうちに、理科室へついた。少し重い戸を開ける。
室内は暗幕が閉じられ、薄暗かった。なぜカーテンが閉められているのか不思議に思いながら、中へと足を踏み出す。むっとする室内でまず鼻についたのが薬品の独特な匂い、そして煙草の匂い――鉄の匂いだった。
「……誰か、いるの?」
慣れない暗闇に目を凝らしながら、恐る恐る尋ねる。声は震えてなかっただろうか。汗のにじむ手をぎゅっと握り、返答を待つ。……返事はない。
もう、頼まれた用などどうでもよかった。彼らとは関わり合いたくなかった。ここにいないとしても、どこかに潜んでいるとしても。このむせ返るような煙草の臭いから逃げ出したかった。
辺りを見回しながら、ゆっくりと後ろに下がる。敷居の外に足を出しほっとした瞬間――
「うっ、ぁあ……」
低い呻き声を聞いた。足を止め、じっと耳をすます。服の擦れ合う音、苦しげな息遣い、声にならない呻き――誰かいる。誰かが中で苦しんでいる。
目はすでに慣れ、実験台の位置もよく見えた。どこにも人影はない。一瞬躊躇した後、ナナは壁にあるスイッチを押した。電光が一斉に室内を照らす。台と台の間の床に、上履きの履いていない足が見えた。他に誰もいないことを確認し、彼のところへ近付く。
制服を着たその人は、うずくまるように床に転がっていた。こちらに背を向け、腹部を抱えるようにして苦しげに息をしている。彼の上履きは両方とも放り出されたように散らばり、周囲の椅子は乱雑に倒されていた。
「だっ、大丈夫!?」
彼に駆け寄り、そっと顔を覗きこむ。長い黒髪に隠されていた横顔には、ところどころ赤い血が滲み、目の上は青黒く変色していた。さっと血の気が引き、何か手当てをしなければと立ち上がる。先に血を拭いて消毒しなければ。ポケットからハンカチを取り出し、実験台の水道で濡らす。衣擦れの音がして振り返ると、彼は台に手をつき立ち上がろうとしていた。
「あっ、駄目、動いちゃ……!」
「僕は大丈夫、だから……」
ぎこちなく微笑むと、彼は上履きをゆっくりと拾って履き始めた。慣れたような動作に、胸が痛くなる。
どうして――どうしてこの人は、自分の痛みに無頓着なのだろう。
『A組に、いじめられている子を庇い、殴られに行く馬鹿がいる』。この噂を聞いたとき、すぐに魅上のことだと気付いた。同時に、心底心配した。中学には喧嘩が強い生徒も多く、小学校と同じやり方でいじめがなくなるとは思えなかった。彼がどんなに頑張ろうと、周りの人間は見て見ぬ振りをするだけ。彼のクラスで味方になる人は、きっと出てこない。皆、自分が大事だから――彼と違って。
彼は屈んで、弦の曲がった眼鏡を拾って掛けた。そして、こちらを振り返る。目が合った途端、その目が驚いたように開かれた。
「……鈴木、さん」
強張った筋肉を動かし、口角を上げる。ちゃんと笑えているだろうか。
「久しぶり……魅上くん、血を拭きたいからここに座って」
傍の椅子を引き、座るよう促す。手に持ったハンカチに目を留めたのか、彼はズボンのポケットから自分のハンカチを取り出し、後で自分で拭くよと言った。
「じゃあ、保健室で手当てを……」
「多分、もう閉まってると思う」
「え?」
「5時半には閉まるんだ……でも、これくらい平気だから」
大丈夫、とまたぎこちなく笑う。こんなに痛々しい痣を作って、平気な訳ない。彼は心配させないように、自分と関わらせないように言っているだけだ。
小学校の頃と、変わってしまった。
彼の目には、ある種の諦めが漂っていた。自分も皆と同じく、味方につくことはないという諦め。考えを肯定してくれる訳がないという諦めが。違う、と言いたかった。自分は皆とは違う。確かに、彼らは改心しないかもしれない。それでも。いじめをなくすため立ち向かおうとするその姿勢は、今も尊敬している。
「……魅上くん、これから時間ある?」
「ある、けど……」
「その、わたしの家がすぐそこだから、救急箱を取ってこようと思って……」
唐揚げは母に任せるしかない。19時までに帰れば、夕食に間に合うだろう。今の魅上を置いて、帰れるわけがなかった。
「えっ、いや、僕は……」
「お願い」
手当てさせて、と彼の目を見つめる。戸惑ったように揺れる瞳は、ただ驚いているだけでなく何かと葛藤しているようにも見えた。背中を押すため、もう一度口を開く。
「手当てしたいの、前みたいに……わたしに出来ることは、それくらいしかないから」
言って、自嘲する。小学生の頃と同じだ。あの頃も今も、いじめと正面から向き合うことができない。ただ、必死で立ち向かう人の怪我を手当てするくらいしか、自分にはできない。彼はしばらく黙っていたが、やがておずおずと頷いた。
「……わかった。じゃあ、お願いするよ」
魅上を誰も来ないであろう空き教室で待たせ、ナナは急いで救急箱を取ってきた。母は理由を聞いてきたが、同じ購買部の子が軽い怪我をしたと言えば、納得してくれた。夕方の6時とはいえ日は長く、学校に戻ってきたときには、すっかり汗だくになっていた。
乾いたハンカチで汗を拭きながら、教室の戸を開ける。涼しい風がさあっと吹き、頬やうなじにしみる心地良さに目を細めた。
「やっぱり、ここが一番涼しいね」
「そうだね……ごめん、わざわざ」
「いいの、わたしがやりたかっただけだから」
笑いながら、窓際に座る彼の机に箱を置く。赤い留め具を外してコットンと消毒薬を取り出し、薬を染み込ませた。
「ちょっと染みるかも……」
屈んで、コットンを怪我の箇所に当てる。口の端や頬など血の滲んでいるところは多く、無意識に眉がひそまる。どうして、彼らは暴力を奮うのだろう。どんな理由であれ、他人を傷つける行為は許されない。許されていいはずがない。
憤りを感じながらも、手先だけは優しく傷口を拭う。彼は特に痛がる様子はなく、じっと前を向いていた。5分後にはテープを貼り終え、大体の手当てが終わる。ありがとう、と微笑む彼に首を振り、ナナはまだ気になっている箇所へ目を向けた。歩くときも、座っている今も、ずっと彼の手が置かれていた箇所。
「……お腹は大丈夫?」
「うん。大丈夫」
「でも、さっきすごく痛がってた……」
「大丈夫、何ともないよ」
彼はそう断言する。見せたくないという意思を感じ、ナナは渋々頷いた。
未だ明るい窓の外から、爽やかな風と共に楽器の音色が流れ込む。こうして彼と二人でいるのは、小3のとき以来だ。あれから同じクラスにならず、接点は自然と消えていった。傍に座る彼は、じっと窓の外を眺めている。眼鏡越しに見える瞳に、もう自分の姿は写ってない。ただ、思い詰めたように、暮れかけた灰色の空を見つめていた。
――話してくれたらいいのに、と思う。
昔はよく考えを話してくれた分、今の彼が余計に遠く感じる。もう、彼の『クラスメイト』ではなくなってしまったからか。
「魅上くん」
前の席に腰掛け、名前を呼ぶ。彼はハッとしたように窓からこちらへ目を移した。謝られる前に口を開く。
「……わたしは、魅上くんのしてることは正しいって、今も思ってるよ」
予想していた通り、黒い瞳は大きく見開かれた。本当にそう思っているのだと伝えるため、ほんの少し口角を上げる。
「今のクラスの人たちには理解されてなくても、いじめられてた子がいじめる側にまわってても……わたしは、魅上くんが間違ってるとは思わないよ」
彼が欲しているのは同意だ。それで彼の荷が少しでも軽くなるのなら、何度でも言える――魅上くんは正しい。魅上くんのやり方は正しい。魅上くんの正義は間違っていない。
やがて、開かれた目がゆるく細まり、ガーゼに覆われた口端が上がる。先程のぎこちなさは、もうなかった。
「ありがとう。そう言ってくれるのは鈴木さんだけだよ……君には昔から救われてる気がする」
「そんな、大袈裟だよ……わたしにはいじめを止める勇気がないから、魅上くんを尊敬してるだけで……その、迷惑じゃなければなんだけど、これから、こんな風に手当てしてもいい?」
断られたらどうしよう、と少し不安になりながら尋ねる。案の定、彼は戸惑ったような顔をした。
「えっ、それは、いいけど……でも、そうすると鈴木さんの帰りが遅くなるかも……」
「大丈夫、すぐそこだし。それに、家からアイスとかも持ってこれるよ?」
「アイス? お菓子は放課後でも持ち込み禁止じゃ……」
「あっ、そうだったね。今のは忘れて」
笑って誤魔化す。彼が生徒会役員に入っているのを忘れていた。
「……じゃあ、いいかな? 明日から、わたし、ここで待ってる。何もなかったときも、一緒に帰ろう?」
「……うん」
「約束」
あの時と同じく、小指を差し出す。彼も覚えていたらしく、すんなり指を絡めてきた。ちょうど風が入り込み、ベージュのカーテンが絡んだ指を撫でる。前もこんなシチュエーションだった気がして、自然と頬が緩む。
やっぱり、自分たちはあの頃と何も変わってない。ただ、取り巻く環境が変わってしまっただけ。
それでも、この世界が窮屈なことに変わりはない。あと数年、ここに閉じ込められなければならないのなら、この社会を良くしようと努める人の力に、少しでもなりたいと思う。
20140413