今かいつかの話
2008年10月21日(火)
帰り支度をしながら窓の外を見ると、雨が降っていた。
朝の予報では晴れだったと記憶している。しかし折り畳み傘を持っていた照にとって、それは問題にならなかった。傘を差し、京都地検から出る。雨は激しく、大きな音が傘の中で反響する。照は薄手のコートを揺らしながら、足早に歩いた。
公園を通りがかった時のことだった。照は小さな鳴き声を耳にした。立ち止まり、足下を見る。そこにはダンボールに入れられた、小さな子猫がいた。目が合うと、子猫はもう一度小さな声で鳴いた。
この寒さだ。もしかしたら凍死してしまうかもしれない。そう思ったが、潔癖症の照にとって、猫を飼うことは考えられなかった。
照は持っていた傘を子猫にかざし、そして小走りに子猫から遠ざかった。冷たい雫が、頭に、顔に、首に、全身に降り注ぐ。後悔はなかった。傘は途中のコンビニで買えばいい。もちろん、牛乳も忘れずに。
2008年10月22日(水)
豪雨の翌日は、まっさらな秋晴れだった。
照は満員電車に揺られながら、職場を目指す。人々の波を抜け、通勤経路を歩き出した。
徐々に公園へと近付く。昨日の猫は無事だろうか。一応昨日は牛乳をやっておいたが、凍死していることもありうる。見たいような、見たくないような気持ちで、照はゆっくりとダンボールへ歩みを進めた。
「ミャア」
生きていた。子猫は元気な様子で、照に向かって鳴いていた。知らず知らず口角が上がる。昨日の夜に買っておいた猫缶を開けた。
「お兄ちゃん、その猫飼うの?」
唐突に落ちてきた明るい声に、顔を上げる。そこにはランドセルを背負った少女が立っていた。黄色い帽子を被っているので、1年生くらいだろうか。期待に満ちた視線に、居心地が悪くなりながらも答える。
「……いや、飼うつもりはない」
「なあんだ……」
少女は残念そうに言うと、照の隣に屈み、子猫を撫でた。子猫も慣れているらしく、にゃあ、と甘えた声をあげる。
「うちも、飼っちゃダメって言われてるんだ。お兄ちゃんちも、奥さんとかにそう言われてるの?」
結婚などしていない。照は首を振った。
「いや、私は……」
「おい、早くしないと遅れるぞ!」
近くにいた男子小学生がこちらに声を張り上げる。少女ははっとしたように立ち上がると、じゃあね、お兄ちゃん、と手を振り去っていってしまった。
この歳になれば、結婚しているのが普通なのだろうか。
秋の澄んだ空気の中、少女の後ろ姿を見つめる照の心中は、複雑な感情で満たされていた。
2008年10月23日(木)
昨日の少女が来るかもしれないと思ったが、子猫が気になり、照は仕事帰りに再び公園に来ていた。買ってきたミルクを懸命に飲む子猫の姿に、自然と頬が緩む。だいぶ昔――小学生の時も、こうして捨てられた猫に餌をやっていたのを思い出す。母に飼いたいと懇願しても、うちにはそんな余裕はないと言われ、段ボールに返すしかなかった。母子家庭でもあり、決して裕福ではなかった。今なら母の気持ちもわかる。懐かしさに浸っていると、聞き覚えのある声がした。
「あ、お兄ちゃん、また来てたんだ」
昨日の少女が立っていた。昨日と同じく照の隣に屈み、子猫を撫でる。
「この猫、かわいいよね……お兄ちゃん、ほんとに飼わないの?」
「ああ」
少女は肩を落とした。
「お母さんに聞いたんだけどね、このまま子猫はここにいられないんだって。保健所っていうところに連れてかれて、殺されちゃうって……」
少女は目に涙をためて言った。もちろん、それは照も知っていた。そして、そうならないためにきちんと準備もしていた。書類鞄から、昨夜作った紙を取り出す。それを少女に渡した。
「『里親募集』?」
「そうだ。この猫を飼ってくれる人を探して、殺処分されないようにするしかない」
そう言うと、お兄ちゃんすごいね!と少女は先ほどとは打って変わって目を輝かせた。
「早速これを配りに行かなきゃ!」
「一応50部刷ってある。駅前で配ろう」
照は一人で配る予定だったが、少女もこの猫を気にかけているためそう誘った。何より一人より二人のほうが早く捌ける。少女は嬉しそうに笑って頷いた。
チラシはすぐに配り終わった。子猫の写真も印刷していたので、そのかわいさに皆受け取ってくれたようだった。あとは連絡が来るのを待つのみ。照の携帯番号とメールアドレスをチラシに書いていた。
「連絡来るといいね!」
「そうだな……少し遅くなってしまったが、大丈夫か?」
時刻は18時30分。すっかり暗くなってしまい、小学校低学年が駅前でうろうろしているのは、あまりよくない。少女が口を開きかけた時、女性の声がした。
「ナナ!!」
足早にこちらにやってくる女性は、少女の母親のようだった。
「いつまでも帰ってこないと思ったら、こんなところで何してるの!? 何かあったら連絡しなさいっていつも言ってるでしょ!?」
「お母さん……」
怒る母親に、少女は眉を下げる。照はすぐに事情を説明した。
「この子は私と、捨てられた猫の里親募集のチラシを配ってくれていたんです。私が彼女を暗くなる前に帰すべきでした。申し訳ありません」
そう頭を下げると、母親はそういうことだったんですね、と笑った。
「この子は前から捨てられた猫のことを心配していて……そのチラシを作ったのはあなたですか?」
「はい」
「ありがとうございます、ナナもこれでホッとすると思います。よかったね、ナナ?」
「うん!」と少女は大きくうなずく。何か連絡があったら知らせてください、と言って、母親と少女は人ごみの中に去っていった。
――いい親子だ。母親はちゃんと少女のことを気にかけている。
照はすがすがしい気分になった。犯罪者とばかり向き合う彼にとって、善良な人々と純粋に話すのは久しぶりだった。この世の人々が皆二人のような善人であれば、犯罪も起きない平和な社会になるだろう。
彼女たちが見えなくなると、コートを翻し、自宅へと歩き出す。いつも無表情でいる彼にしては珍しく、その口元にかすかな笑みが浮かんでいた。
20190520