Jelly

『好き』を探そうと決意したその日から、ナナは皆の行動にアンテナを張り巡らすようになった。誰かがいつもと違う、何か新しいことをしているのを見つけては、交ぜてもらったり、よく話さない人ととも積極的に話すようにした。
 もちろん、そこにはエルも含まれている。
 エルは相変わらず出てきてくれないし、返答も大体3パターン(そうですか、そうですね、知りません)しかなく、会話は全く弾まないが、時々出るパターン外の台詞にはっとさせられることが多かった。言葉の端々に知性が感じられる、と言うのは大袈裟だけれど、俯瞰した視点で物事を見ているような感じを受けた。その感覚が楽しくて、ナナはエルが答えてくれるような質問を見つけては、ドア越しに話し掛けた。彼の興味を惹くのは大抵人間に関することで――でも哲学は好きじゃないらしい――図書室やワイミーの蔵書から見つけるのは一苦労だった。しかしその分、頭が良くなるような気がした。
 そうしてエルと話し始めて、『好き』を探し始めて一ヶ月。今日もまたアメリアの講義――最近のファッションの傾向と歴代有名デザイナーの波乱万丈な人生を語り、最後は『あんたも美意識ってものを磨きなさい』で終わる――を聞き終わったところで、彼女は見せていた雑誌を閉じ、そういえば、と口を開いた。

「最近エルと仲良いらしいけど、部屋の中は見たことある?」

 ナナはおやつのヌガーを歯にモゴモゴ貼り付かせながら答える。

「ううん、まだ」

「……まだって、もしかして、見せてもらうつもりなの?」

 信じられないと言う風に眉をひそめたアメリアに、ナナはだって、と首を振る。

「あそこにはスーパーコンピューターがあるんでしょ? 私、どんなのか見てみたいし、できることなら触ってみたい!」

「そんなこと言ったって、エルが部屋に入れてくれると思う? 思わないでしょ?」

「うん、思わないよ」

「じゃあどうするの?」

「うーん、まあなんとかなるって」

 ナナは笑って、二個目のヌガーを噛みながらベッドに倒れ込む。一ヶ月間エルと交流し、それなりに信頼関係は築いているような気がする。部屋に入れてもらえなくても、コンピューターを見せてもらうくらいできるだろう。
 そんなに上手くいかないわよ、と横から声が聞こえた気がしたが、聞こえない振りをした。



(さあエルよ、出てくるんだ……)

 休日の昼下がり。
 ナナはいつかのように、強い陽が窓から差し込む廊下で、エルが出てくる側の死角に隠れていた。遠くに多くの足音が聞こえるが、ここに来ることはないだろう。飴を置かなくなってからは、エルを知らない子供たちもめっきりここを通らなくなった。
 人間とは薄情な生き物だ、と悟っていると、唐突にエルの部屋のドアが開いた。予想より速く開いたことに驚きながらも、息をひそめて様子をうかがう。
 一月ぶりに見たエルは、相変わらずだった。相変わらずゆるい白のカットソーを着、裸足でだぼだぼのジーンズをだぼつかせていた。違うのは、髪の跳ね具合ぐらいか。髪が伸びたのかなと、ナナが後ろ姿を見ながらぼんやり思ううちに、エルはこちらを振り向かず、ペタペタ廊下を曲がっていった。
『あの』エルのことだ。自分がいることくらいわかっているはず。10秒待ったら近付こう、とその場でゆっくり10秒数え、よし、とナナは忍び足でドアへ近付いた。
 右壁にある木製のベージュのドアはピタリと閉じられ、中からも音は聞こえない。一歩ずつ慎重に歩いているため、なかなかたどり着けず、ナナはもどかしくなりながらも、そろりそろり足並みを変えずに歩いた。そして、ようやくドアへとたどり着き、どきどきと、歓喜と緊張で両手を合わせたその時――

「何してるんですか」

 ナナの喜びは一気に萎んでしまった。やっぱりエルにこの作戦は無理だったかと、諦めながら声のした方へ顔を上げる。エルは前と同じくうんざりしたような顔で、こちらを見下ろしていた。ギョロリとした目の下の隈は、心なしか前以上にひどくなっている。

「……何って、見てわからない?散歩よ、散歩」

「……人の部屋の前に来る散歩がどこにあるんですか。理由は何となくわかりましたから早く帰ってください」

 そう淡々と言うと、エルは腕を掴もうとし、そして逡巡したように止まった後、ナナの服の裾をつまんでひっぱった。ナナは必死で裾を押さえながら言う。

「えっ、なんで、服が伸びちゃう!」

「また怒られるのは嫌だからです。洗濯すれば縮みます」

 平然と言いながら、ぐいぐい裾を引っ張ってくる。ナナはわき腹が見えるのを阻止するべくそれに抵抗しながらも、彼の言った言葉に疑問を持った。

「ちょっと待って、なんで私がエルの部屋を開けようとしたかわかるの?」

 エルは引っ張るのを止めずに、むしろ歩き出そうとしながら答えた。

「はい。スーパーコンピューターが見たいとか、そういう理由でしょう?」

 ワイミーさんに言えば、そういう施設の見学に連れてってもらえるんじゃないですか、と彼は適当に言う。ナナはそんな彼にムッとして応えた。

「ワイミーさん忙しそうだもん、そんなこと頼めないよ!」

「…………」

 言った途端、掴んでいた手の力が弱まった。ナナは驚きながらも声を張る。

「エ、エルがケチなのは知ってたけど、こんなにケチだなんて知らなかった!」

「……………」

 どもってしまったが、どうやら成功したらしい。
 エルは裾から手を離すと、仕方なさそうにこちらに首を回して言った。

「……外からですよ」

「わーありがとうエル!!」

 喜んで、ドアへ近付く彼の後ろに待機する。エルはノブに手を掛け、ドアを引いた。
 エルの背中から顔を出して、まず目に入ったのは、フローリングの床を埋め尽くす色とりどりのコード。そして奥に置かれた数台のコンピューター、それから天井まで届きそうな大きな機械。コードはそれぞれ緻密な機械に刺され、それがコンピューターへ繋がれているようだった。
 ワイミーズハウスにこんな充実した設備があったとは。子供部屋とはかけ離れた設備に、声も出せず茫然としていると、エルは「もういいでしょう」と言い、ドアを閉めてしまった。その間わずか5秒。
 しかし、それを想定して部屋の様子を目に焼き付けていたナナは、こちらを振り返った彼に口を開く。

「……もうギャンブルはしてないの?」

「……なんでですか?」

「モニターに顔写真がバアアってあったから」

 奥にあったコンピューターの画面のことだ。エルは特に気にすることなく「はい、もうやってないです」と答えた。
 ぴくり、と自分の指が自然と動く。嫌な予感を感じながら、ナナはゆっくりと質問した。

「……じゃあ、今は何してるの?」

「殺人事件を追ってます」

「殺人事件て……今巷で有名な、手掛かりのない連続殺人事件?」

 彼ならこれくらい追うだろう。そう思い聞いてみると、案の定エルは頷いた。世間で何と思われている事件かなんて、興味がないという風に。

「……すごいね、世間は迷宮入りだって騒いでるのに。エルが、そんなに正義感が強い人だったなんて思わなかった……」

 エルは首を振り、こう答えた。

「正義感で事件を追っている訳じゃないです。ただ、マネーゲームやパズルより面白いからと言う他ありません。それに、犯人を追えば追うほど、自分の智力が高まっていく……この感覚は初めてです」

 変化を楽しむように、エルは軽く口角を上げる。初めて見るその表情に、ナナは強い諦めとやるせなさを感じた。
――ああ、やっぱり。
 エルは見つけてしまったのだ。本当に夢中になれる何かを。ギャンブルではなく、地に足のついた、現実的な何かを。
 そっか、としかナナは言えなかった。他に何が言えただろう。よかったね、などとは、今は絶対に言えなかった。
 下を向く自分の様子が気にかかったのか、上からどうしました?と気遣う声がかけられる。何でもない、とナナは首を振り、見せてくれてありがとうと部屋へ戻ろうとしたが、その前にまたTシャツの裾を摘ままれてしまった。

「何?」

「大丈夫だと思いますよ」

「!」

 何ともないように言われた言葉に、ナナは思わず顔を上げる。エルは表情の読み取れない、いつもの無表情で、淡々と言った。

「ワイミーさんが子供を追い出したなんて話は聞いたことないですし、あなたはどちらかと言うと、贔屓されているように思います。将来など今考えても仕方ありません。そんなに悩まなくても良いんじゃないですか?」

 エルの言うことは尤もだった。贔屓云々はないにしても、だ。
 重くなった心が軽くなるのを感じ、自然と笑みが浮かぶ。そうだ、気にしたって仕方ない。将来のことなんて、まだわからないのだから。

「だよね……気にしたって何にもならないよね! ありがとうエル、邪魔してごめんね。あとついでに言っとくと、私の名前ナナよ、覚えてね」

 気恥ずかしさを隠すためにそう言うと、エルは使うことはないでしょうが一応覚えておきます、と摘まんでいた裾を取りながら冷静に言った。本当に使われる機会がなさそうなのが悲しい。しかしその代わりのように、エルはじゃあ、とこちらに挨拶をして、部屋の中へ入っていった。
 残されたナナは、ポカンとドアを見つめて立ちすくむ。ワイミーにしか挨拶してなかったあのエルが、まさか自分に挨拶するなんて。
 しばらくして我に返ったナナは、くるりと向きを変え、自分の部屋へ最大限の歩幅でたかたか歩き出した(廊下は走らないこと!)。陽気で暖められたぬるい空気が、剥き出しの腕や足に絡み付く。
 今日はエルの笑顔――と呼べるかわからない微々たるものだけど――を見たり、エルに挨拶されたり、エルの部屋を見たりと、初めて尽くしだ。
 天変地異でも起こるのではないかという心配もあるが、今はただ、ワイミー以外の誰も見たこと、されたことがないであろうことを、アメリアに報告することしか考えられなかった。