……―――薬品の匂いがする。




 ここは……どこだろう?
 生きているのか、死んでいるのか。
 ただ、ベッドに横たわっていることはわかる。
 瞼の裏にぼんやりと白い光を感じる。


 目を開けようと瞼を動かしてみれば、父と母の思い詰めた顔が写った。
 二人の目がハッと開かれる。

ナナ、大丈夫か? どこか痛いところは?」

 手前にいた父が、早口で問い掛ける。
 痛みは………ない。けれど、喉に違和感がある。そう答えようとして、答えられなかった。
 眉を寄せて喉元に手を当てると、父は顔を歪める。

「ああ…そうか、声が出ないんだったな……」

 (声が、出ない…? わたし、あれから……)

 魅上に首を絞められて、意識が薄れたことまでは覚えている。それから、何があったのだろう。白いベッドに寝かされていることから、ここが病室だとわかるが。
 困惑が顔に出ていたのか、母が言った。

ナナ……あなた、3日間も気を失っていたの。声が出ないのは、声帯近くが炎症しているからだそうよ」
「幸い薬を飲んで安静にしていれば、一週間で治るそうだ」

 ほっとして、二人の言葉に頷きを返す。

 (よかった…それだけで済んだってことは……)

「…あなたのクラスの、竜崎くんが助けてくれたのよ」

 わたしの考えを継ぐように言った母の言葉に、ぎゅっと胸が締め付けられる。
 やっぱり竜崎が……あの時リューズを押してから、ほんの数分で駆けつけて来てくれたんだろう。

「ああ…三日間、ちょくちょく様子を見に来ていたよ。ついさっきもここにいたんだ。彼が助けに入らなければ……本当に、感謝してもしきれない…」
「ええ……」

 そう呟く両親の表情が、事態の深刻さを物語っている。
 あの恐怖感、苦しさ、潰れるような痛み――意識を手放す数秒前には、ミシミシと骨の鳴る音を聞いた――………。

「大丈夫か、ナナ?」

 父の心配そうな声に目を上げ、一つ頷く。それから、もう一つ気になっていたことを吐息だけで尋ねた。

「……魅上くんは…?」

 二人の顔がさっと強ばり、気遣うような目でこちらを見る。当然の反応だった。娘の小学生の頃の友達であり、高校のクラスメイトでもある人間が、娘を殺そうとしたのだから。

「……魅上は竜崎くんがおまえを助ける際に蹴られて、あばらを4本折ったらしく、今は拘置所の病院に入れられている」
「…そう……」

 複雑な気分だった。怒りはもちろんある。首を絞められた経験は、恐らく、一生忘れられない……なのに、何なのだろう、このやるせなさは。もっと、違う道があったのではないかと考えてしまう。自分を買い被るつもりはないが、あの魅上が衝動的に手をかけてしまうほどの強い何かを、自分に対して抱いていたのな ら、わたしが彼の考えを正せたのではないか――何もかもが手遅れになった今、それはただの願望でしかない。
 室内に、重苦しい沈黙が落ちる。最初に口を開いたのは父だった。

「……先生を、呼ばないとな…」







 ナースコールでやって来た担当の医者は、ナナにいくつか喉の様子を尋ね、一応明日まで様子を見て、何も異常がないようだったら明後日退院ということになった。声が出ないこと以外は何も不自由がないため、ナナの両親はひとまず着替えを置いて帰り、翌日には、母が連絡したのか、月やクラスメイトたち、テニス部の皆が見舞いに来た。囁くのもいけないと医者に注意されたため、筆談で話をする。皆とても心配していたらしく、粧裕や海砂たちはベッドに もたれるナナを見て安心したのか、目に涙を浮かべていた。

ナナ、よかった、ほんとに――」
「もう、すごく心配したんだから――!」

 ナナは面食らいながらも、あたたかな感情が胸に満ちる。本当に、友達に恵まれている。
 定期試験前の忙しい時期に来てくれた皆は、雑談(筆談)を一時間近くしたあと、18時頃に帰っていった。最後に出ていった粧裕に手を振ったあとも、ナナは微笑みを浮かべ、白い引き戸を見つめる。

 (みんな……海砂まで、泣き出しそうなくらい心配してくれた…)

 月への好意を薄々感じていただろうに。今はもう勘違いされているし、その気持ちも薄れたけれど。

 唐突に、見ていたドアがカラリと開いた。
 隈のある、特徴的な黒い瞳と合う。心臓が跳ねるのと、その目がかすかに開いたのは同時だった。
 彼はドアが重みで閉まるに任せ、緩いジーンズを擦らせながら大股でこちらに来ると、ベッド脇に少し屈んで目線を合わせる。久し振りに見た竜崎は、いつも以上に隈が濃く、疲れているように見えた。

「……大丈夫、ですか? 声帯炎と聞きましたが、痛みはありませんか?」

 心配そうに自分を見つめる彼に、大丈夫だと伝わるよう微笑んで頷く。竜崎は安堵の表情を見せたが、それは一瞬のことだった。

「すみません……そもそも私が渋井丸の恨みを買わなければ、こんなことには…」

 そんなことないと、悔やむように眉をひそめる彼に首を振るが、その表情は晴れない。慌てて手元にあった紙とペンを取り、『竜崎のせいじゃない、恨みを晴らそうとした渋井丸が悪い』と走り書きして渡す。メモを手に取った竜崎は、寄せられた眉根を緩めることなく、ゆっくりと首を振った。

「…だとしても、私に非があります。私は知っていたんです、魅上の異常性と……執着を。それを軽く見てしまっていた…」

 不意をつかれ、ナナは目を見開く。…どうして知っていたんだろう。竜崎と魅上が話しているところは見たことがなく(魅上が避けていたのかもしれない)、魅上があの考えをそう簡単に口にするとは思えない。
 『どうして知ってたの?』と書いて見せれば、竜崎は答えた。

「渋井丸が事故で入院したと夜神さんが魅上に教えたとき、魅上が溢した呟きを聞いたんです。呟きと言っても声に出さず、口を動かしただけでしたが――惜しかったと、そう言っていました……それ以前にも気になることがあって、彼については少し調べていたんですが…」

 竜崎は言葉を切り、項垂れる。

「―――まさか、ここまでとは……」

 ここまで……正義感の強さと潔癖さを言っているんだろうか。
 そのまま口をつぐんでしまった竜崎は、項垂れたまま顔を上げようとしない。こんなに落ち込む彼を見るのは初めてだった。ナナは動揺しながらも、感謝の気持ちを伝えようとペンを走らせた。

 『でも、竜崎はわたしを助けてくれたでしょう? すぐに駆けつけてくれた。それだけで十分。本当に、ありがとう』

 最後の一行を丁寧に書いてそっと差し出す。顔を上げた彼の暗く沈んだ顔に、ほんの少し光が差したのを見て取り、ナナはほっと胸を撫で下ろした。そして、こちらを見つめる彼にもう一度、安心させるように微笑む。
 彼は一度瞬き、少し口角を下げたかと思うと、手を伸ばしてきた。頭に軽い重みを感じ、そのままゆっくりと髪をすくようにして、不器用に撫ぜられる。指がかすかに耳元に触れた。
 突然のことにうろたえるナナに、竜崎はもう一度ぎこちなく髪をすきながら、呟くように言った。

「……無理して笑う必要はありません。泣いてもいいんですよ」

 支えていた何かが、外れた気がした。

 鼻の奥がつんと痛み、目の縁から涙が染み出す。
 恐かった。恐ろしかった。死んでしまうのかと、自分の人生はここまでなのかと。死への恐怖がよみがえる。押さえつけていた感情が、堰を切って溢れ出す。
 膝に顔を埋め、静かにしゃくり上げるナナの背を、大きな掌がそっと擦っていた。



20130818