ナナちゃん、ナナちゃん」

 翌朝。あくびを噛み殺しながら教室に入ってすぐに、名前を呼ばれた。声のかかった方を見ると、京子と数人の女生徒が手招きしている。
 メアドのことだろうか。でも、周りの子がいるし…。
 ナナは不思議に思いながら、そちらへ足を向けた。

「おはよー、どうしたの?」
「おはよう」
「おはよ、ナナちゃん」
「この前のことなんだけど…」

 グループの中心にいる京子が、声を潜めて言う。

「竜崎くんのメアド、聞いてくれた?」

 やはり、そのことだったらしい。京子の期待に満ちた瞳から目を離して周りを見れば、皆の目も京子と同じくきらきらしている。ナナは思わずたじろいだ。

 (な、なんで増えてるの…!)

 昨日のテニスのおかげだろうか。確かにすごく上手かったけれど……。

「…ごめん、まだ聞いてないや」

 動揺を隠し、作り笑いを浮かべながらそう答えると、京子たちは目に見えてがっくりと肩を落とした。

「そっか……」
「京子ちゃんたちが聞いてみたら? ほら、今日はもう登校してきてるみたいだし」

 窓際の方の席で本を読む竜崎の姿を確認して、そう提案すれば、京子たちはとんでもないとばかりに首を振った。

「ダメダメ、多分緊張して何も話せないよ」
「うんうん」

 そんなに緊張するなら、メールのやり取りも苦労するんじゃないか。そう思ったが、ナナは口に出さず、代わりにこう答えた。

「わかった…じゃあ、今聞いてくるね」

 京子たちはぱっと顔を輝かせる。「ありがとう!」と口々に礼を言われながら、ナナは竜崎の席へ見送られた。自分の席に鞄を置くと、いつも通り竜崎と挨拶を交わし、それから椅子を隣へ近づけて座る。こちらの様子を伺っている京子たちと、竜崎の肩越しに目が合った…なんだか自分まで緊張してしまう。いつもはしない行動を不思議そうに見ていた竜崎に、ナナは周りに聞こえないよう、なるべく声を落として言った。

「…ね、携帯のメアド、教えてくれない?」
「メアド……メールアドレスのことですか?」
「そう……友達がね、竜崎とメールしたいんだって」

 誤解されないよう慌ててそう付け加えれば、彼は首を振った。

「駄目です、教えられません」
「そっか…」

 緊張した面持ちの京子たちと目を合わせて、首を振る。京子たちはそうなることをある程度予想していたようで、落胆しながらもかすかに笑みを返してくれた。

 (よかった……って、何が?)

「……ナナさんは、知りたいですか?」

 沸きあがってきた安堵感を不思議に思っていると、竜崎に問いかけられる。

「え、わたし? わたしは…うーん……」

 本当のことを言えば知りたい。でも、そう言えば気があると思われるんじゃないかと思い、言葉を濁して竜崎を見れば、彼は特に表情を変えずに(もともと無表情)こちらを見ていた。 何だか気にするのが馬鹿ばかしくなり、答える。

「…知りたい、かな」
「そうですか…」

 竜崎は頷き、そして言った。

「でも、教えられません」

 ガクッと思わず体が傾く。

「何で教えられないのに聞くの…!」

 知りたいと答えたことが恥ずかしくなり、むっとしてそう言えば、竜崎は口角を上げた。

「一応確認してみたんです。他に連絡をとる手段を作っておくので、待っていてください」
「……うん。けど作るって…?」
「おはよーナナ、竜崎くん。なんか京子ちゃんたちが二人の方見てたけど、何かあった?」

 その言い方に疑問を抱いたとき、粧裕がこちらにやってきた。

「おはようございます」
「おはよー、粧裕。特に何もないよ」
「そう…? そういえば、聞いた?」
「何?」
「渋井丸拓男が入院したんだって」
「…ええ?」

 思い当たる人物と言えば一人しかいない。本当に病院送りにしたと信じているわけではなかったが、自然と隣を向いてしまう。案の定、竜崎は不服そうな顔をした。

「…私はあれから顔も合わせてませんよ」
「はは、ごめんね、ホントに疑った訳じゃないよ」
「喧嘩じゃなくて事故ったみたいだよ、バイクで。軽い怪我だって」
「へえー…」

 渋井丸のことだから、無茶な運転でもしたのだろう。ナナ自身彼の被害に遭ったので、特に同情は湧いてこない。かといって、他人の不幸を喜ぶ気持ちにもなれない。

「――渋井丸が、どうかしたのか?」

 相槌を返していると、意外な人物が輪に入ってきた。一瞬切れ長の目と合うが、すぐに反らされてしまう。粧裕は顔を少し俯かせた自分を不思議そうに見たあと、魅上を見上げた。

「魅上くんおはよ…バイクで事故って入院したんだって」
「おはよう。そうか……有り難う………――」

 粧裕の説明を聞き、魅上は戻っていく。渋井丸の話だけ聞きに来たらしい。
 その背中をぼんやりと見送っていると、ガリと何かを噛む音が耳に入った。手前に目を戻せば、竜崎が親指の爪を噛みながら、席に戻った魅上を見つめている。
 どうかしたのと問いかければ、彼は魅上に目を向けたまま言った。

「……ナナさんは、魅上くんと同じ小学校に数年通ってたんですよね?」
「? うん、そうだけど……」

 (竜崎に言ったっけ、そのこと…)

「彼はどんな人物だと思いますか? 見たところ几帳面で、学級委員や副会長としての正義感がとても強いと感じますが」

 その見解は的を射ていた。無関心なようで、意外と人を見ている。
 ナナは些か呆気にとられながらも、口を開いた。

「……間違ってないと思う。いじめとか、そういう悪が絶対に許せなくて、よくいじめた子と対立してた。わたしはずっと尊敬してたんだけど…」
「けど?」
「今は……よくわかんない…」
「わからない…?」

 こちらを向き、眉を寄せた竜崎に頷く。
 魅上とはこれまでも余り話すことはなかったが、今では互いに全く話さなくなっていた。困っている子を助ける頼れる委員長という、小学生の頃に抱いていたイメージが先日の彼の言葉で崩れ、困惑したナナは、魅上とどう接したらいいかわからなくなったのだ。
 黙ってしまったナナを竜崎はじっと見つめ、そして結論付けるように呟いた。

「…まあ、自ら犯罪に手を染めるような人間ではないでしょう……」

 ナナは目を見開き、もう一度魅上の背中へ視線を向けた竜崎を見る。

 (犯罪…? まさか、そんなこと……)

 不穏な言葉に不安を感じ、二人のやり取りを黙って聞いていた粧裕と目を合わせる。彼女もまた、困惑したような表情をしていた。



20130813