第二の殺人
男性は無言になった。思案しているというより、唖然としているようだった。あまりにも沈黙が長いので、サラは腰を上げた。「あの、そろそろ私戻らないと……」
――どこへ?
自問して悲しくなる。宿泊所に戻ってもお金を払えない。かといって、ブローチを売る決意は固まっていない。どうしようかと思い巡らせる。シャーロットにお金を借りるか――いや、そんな真似はしたくない。
ぐるぐると巡らせているサラの思考を止めたのは、男の一声だった。
「……ここにいてもらえますか?」
急に声を発した男を見つめる。この人は「記憶喪失」なのだから、確かに一緒にいたほうがいいかもしれない。サラは納得したが、次の彼の言葉でそれは覆された。
「……信じてもらえないと思いますが、私は二〇〇二年から来ました」
サラは呆気にとられた。二〇〇二年から来たとはどういうことだろう。
「二〇〇二年? それってすごい未来……?」
「そうです、すごい未来です……いろいろと状況を知りたいので、あなたの知っている大人のところへ案内していただいてもいいですか?」
彼は子供であり貧民でもあるサラに対して、丁寧な物腰で言った。生まれてこのかた、敬語を使われたことがないサラは当惑する。この時代の労働者階級はもちろん、上流階級や中流階級も貧民に敬意を示すことはない。変わった服装も未来人だからと言われれば腑に落ちる。彼は本当に未来から来たのかもしれない。
サラは彼をシャーロットのところへ案内することにした。サラの知る大人は彼女とドルイットだけだ。二人のうち家を知っていて、より信頼できるのはシャーロットだった。
男性はエルと名乗った。アルファベット一文字のLらしい。未来では変わった名前が多いのだろうか。
墓地を出て徐々に街中へ入っていく。まだ日が落ちて間もないからか、雑踏でごった返していた。もう少し花売りを粘るべきだったか、とサラは思った。ただ今は、未来人のエルをシャーロットの元へ案内するのが先だ。
エルはというと、馬車やガス灯など様々な物に視線を送っていた。その異様な服装と容貌に、通り過ぎる人々が怪しむようにエルを見ているが、まったく意に介していないようで、「私は本当に一九世紀に来てしまったんですね」としみじみと言った。
「エルは何がきっかけでこの時代に来たの?」
「きっかけは、特になかったんです」
エルはこう話した。二〇〇二年九月七日――一一四年後の今日、夕暮れ時に家の近くを散歩していた。そして墓地を通り過ぎるとき、サラの泣き声を聞いた。誰もいないため不思議に思い近づくと、いつの間にか景色が変わり、サラを見つけたのだそうだ。
「普段外出するときは乗り物に乗っているのですが、今日は一人で歩きたい気分だったので近くを散歩してました……それがまさか、一八八八年にタイムスリップするとは夢にも思いませんでした……」
宙を見つめるエルは、これからどうすればいいかわからないようだった。サラと同じだ。サラは彼に先ほどとは違う同情心と、共感を持った。
シャーロットの店舗兼住居に着いた頃には、気温も下がり、サラは上着を着てくればよかったと後悔した。上着といっても九月にふさわしいジャケットなどではなく、厚手のコートしか持っていなかったが。
ノックすると、シャーロットが顔を出した。その顔にはどことなく疲れが見えていた。しかし、こちらを見た途端それは消え失せ、面食らったような表情になった。
「サラ……この人は?」
「さっき会った人なの」
「こんばんは。事情を説明するので、中に入らせていただいてもいいでしょうか?」
シャーロットはエルの言葉に眉をひそめながらも、中に入れてくれた。あちらこちらに置かれた花々は、朝と同じく悠然と咲き誇っている。その奥にあるテーブルに、三人で座った。まずエルが未来から来たことを話し、次にサラが自分の事情――宿泊所に渡すお金がないこと――を説明する。シャーロットはサラと同様、エルの姿と服装で、彼が未来から来たことを信じた。
「未来から来たことはわかったけど……それで、これからどうするの? 二人とも私の家で暮らしてもいいけど、食べ物はそんなないわよ。私も裕福じゃないから毎日三人分はとても買えない」
残念だけど、とシャーロットは眉を下げる。
サラは彼女の言葉に落ち込んだが、エルは動じた様子はなかった。彼は椅子の上に座るという、これまたおかしな格好をしていた。
「わかりました。自分でお金を稼いで、サラさんと下宿しようと思います」
「お金を稼ぐって、どうやって? それも下宿だと高いお金を取られるわよ」
同感だった。簡易宿泊所に比べて、下宿は高いと聞く。そしてどうやってお金を稼ぐのかも知りたかったが、エルは質問に答えず、この辺で貴族が集まるパブはないかと尋ねた。
「……私は高級なパブに詳しいわけではないけど、オクスフォード・ストリートにある『ストーク・ホテル』はそんなパブだと聞いたわ」
エルは椅子から降りて、とんでもないことを言った。
「今からサラさんとそこへ行ってきます」
「えっ」
「その格好じゃ無理よ、門前払いされるわ! というか、何をする気なの? パブを襲撃するんじゃないわよね?」
まさか、とエルを見上げる。彼は「襲撃などしません。お金はお金持ちから巻き上げるのが一番いいんです」と自明の理を言った。
「そのパブまでの交通費と一ポンドをお借りしたいのですが……」
「交通費はわかるけど一ポンドも!? そんな大金、貸せるわけないじゃない」
そうだそうだ、とサラも思う。けれどエルは「倍にして返します」と表情を変えなかった。どこからそんな自信が来るのか。とてもお金を稼げるようには見えない。
「信じてください……パブでシャーロットさんから借りる交通費と二ポンド、そして下宿代二ヶ月分は稼ぎます」
シャーロットは呆れ果てたように、無言でエルを見つめた。エルもまた彼女を見つめ返す。少しの沈黙。あの真っ黒な瞳が動かないことを悟ったのか、シャーロットはため息をついた。
「……いいわ、用意する。絶対にお金を返してね」
「ありがとうございます、今日中にお返しします……ところで、上等な紙などはありますか?」
ひょんな言葉に、シャーロットは怪訝そうな顔をした。サラも心の中で首を傾げる。
「紙なら……ブーケのメッセージカードがあるけど」
「十分です。そこに一筆書いていただきたい言葉があります」
シャーロットはもう逆らわないことにしたのか、素直に紙と万年筆を持ってきて、エルの言葉を書きとった。彼女はインクを乾かすため、ひらひらとカードをはためかせた。
「こんなカードで中に入れるかしら?」
「やってみなければわかりません。それでも入れなかったら、強硬手段に出ます」
「やっぱり襲撃するんじゃない! サラ、危ないからここにいたほうがいいわよ」
「サラさんは土地勘があるので、一緒に来てもらいたいです。もしここに帰れなかったら困るので」
シャーロットは呆れたようにエルを一目し、それからこちらを向いた。
「サラ、エルはこう言ってるけど、嫌なら行かなくていいのよ」
サラはすぐに首を振った。
「私は嫌じゃないよ、一緒に行く」
それが未来人だったとしても、大人に必要とされたのは初めてだった。今までは大人に世話をされる立場だったため、サラは嬉しかった。役に立てるのなら、そうしたいという気持ちが強かった。
シャーロットは「そう」とため息交じりに相づちを打つと、諦めたように立ち上がった。そして奥の部屋からいくつかの硬貨とお札を持ってきて、エルに渡した。
「絶対に返して、それからサラに危険な真似をさせないで」
念を押す彼女に、エルは「承知してます」と頷いた。シャーロットは自分を本当に心配してくれているのだ。サラは喜びで胸がいっぱいになる一方、彼女を裏切っているような罪悪感を覚えた。
シャーロットと別れ、サラとエルは外に出る。通りにはまだ多くの人々が行き交っていた。
「辻馬車(ハンサム)を呼ぶには、笛を吹くんでしたっけ?」
「うん、紳士がやってるのを見たことある」
そう答えるやいなや、エルは指笛を吹いた。辺りに笛の高い音が響く。あまりにも上手だったため、「指笛は得意なの?」と尋ねるも、「いえ、初めてやりました」と彼は答えた。初めてで指笛が吹けるものなのか。試しにサラもやってみたが、ただ空気を吹くだけで音は鳴らなかった。
「え、なんで?」
「たぶん、コツがいるんだと思います」
エルから指笛のレクチャーを受けているうちに、馬の蹄の音が聞こえてきた。コバルトブルーの辻馬車が目の前に現れる。下りてきた御者は、サラたちがお金を払えるのか疑っているようで、「どこまで?」とぶっきらぼうに言った。
「オクスフォード・ストリートの『ストーク・ホテル』まで」
エルの答えに、御者はあからさまに眉をひそめた。
「旦那、あそこに行ってもそんな格好じゃ入れないですぜ?」
「なんとかします。お金はあるので連れて行ってください」
エルがシャーロットからもらった二ペンスを見せた。御者は鼻を鳴らし、サラとエルを馬車に乗せた。そして馬に鞭を打った。
馬車に乗るのはこれが初めてだった。ガタゴトと揺れるその乗り心地は快適ではないが、歩かなくても移動することに感動していた。
「私、馬車に乗るのって初めて! それもオムニバスじゃなくてハンサムに乗るなんて!」
「私も初めてです。一度乗ってみたかったんですよ、辻馬車に」
「未来にはないの?」
「ないです。代わりに車という乗り物が走ってます」
聞いたことがない言葉だった。やはりエルは未来人なのだ。
「車って、どういう乗り物なの?」
「馬ではなく、ガソリンという燃料を使って走る乗り物です。馬車よりも速く走りますし、乗り心地もいいですよ」
馬車よりも乗り心地がいいのなら、一度でいいから乗ってみたい。サラはそう思った。
「ストーク・ホテル」は豪奢なパブだった。繊細な模様が描かれたタイルが張られ、大きな扉の上には飾り彫りの入ったゴシックペディメントが施されている。確かに自分たちの格好では入れなさそうだ。
「ほんとに入るの?」
「はい」
エルは気後れすることなく扉を開けようとした。しかしその前に中から開かれ、きちんとした身なりのボーイが出てきた。
「すみません、今店に入ろうと?」
そんなことは絶対にないはずだという気持ちが声に表れていた。エルは臆する様子もなく「そうです」と答えた。彼はこう説明した。
「……申し訳ございませんが、紹介がなければ店に入ることはできません。お引き取りください」
「紹介状なら、ここにあります」
エルは先ほどシャーロットに書いてもらったカードをポケットから取り出し、手渡した。ボーイは怪訝そうにカードを開き、中の文章を読んだ。
「『エル・ローライトおよび、サラ・ニコルズ両名をストーク・ホテルに迎え入れるよう命ず ヘンリー・スペンサー・アルビー伯爵』……アルビー伯爵!?」
ボーイは突然叫び、少し考える素振りを見せると、打って変わってにこやかに笑った。
「これはこれは、アルビー伯爵のお知り合いだったのですね。どうぞ、中へお入りください」
エルはどうしてアルビー伯爵とやらを知っていたのだろう。未来では有名な伯爵なのだろうか。
店内の装飾は、外観よりも豪華だった。きらびやかなシャンデリアが煌々と店の中を照らし、入り組んだ通路の端々に並ぶ、金属の装飾品を輝かせている。そこには地球儀や船の模型など、見たことのない装飾品がたくさんあった。
サラは一つ一つをじっくり見たかったが、エルはそれに目もくれず、誰かを探すように通路をすりぬけ、一部屋一部屋、磨りガラスの間の入り口から中を見て回った。エルがどうやってお金を稼ぐのかわからないため、何を探しているのか聞こうとしたが、口を開く前に、エルはある部屋の前で立ち止まった。
「ここがいいですね」
そっと中をうかがうと、三人の紳士たちがタバコを燻らせながら、トランプゲームに興じていた。彼らのそばにはステッキとシルクハットが置いてある。上等なスーツといい、彼らはきっと貴族だろう。
エルは何の迷いもなくずかずかと部屋の中へ入り込んだ。彼に怖いものはあるのだろうか。
「こんばんは」
三人の貴族は手を止めて、一斉にエルを見上げた。一人が不審そうに問いかける。
「なんだね、君は?」
重々しい空気を気にする様子もなく、エルは当たり前のように名乗った。
「私はエルと言います。カードゲームに参加させていただきたいのですが……」
もう一人が嘲笑を浮かべた。
「我々のカードゲームに、君がかね? あいにくこのゲームは金をかけているのでね。金がなければ参加はできない。帰ってくれ」
「金ならあります」
エルは一ポンド札を取り出した。
「これが私の全財産です。これをかけて参加させていただきたい」
三人はどっと笑った。嫌な笑いだった。エルが負けると決めつけている笑いだ。
「いいだろう、君のその心意気に恐れ入った。参加を許可する……異論はないかね?」
「ああ」と他の二人が頷く。嫌な予感しかしなかった。急いで部屋に入り、エルの服の裾を握った。
「エル、やめとこうよ」と囁く。しかしエルは聞かなかった。
「こんなチャンスは二度とありません……それに」
彼は薄く微笑んだ。
「私は負けませんよ」
エルは、確かに強かった。
「エースのフォーカード」
「ストレートフラッシュ」
「ロイヤルストレートフラッシュ」
サラはポーカーには詳しくないが、貴族たちのうめき声とエルが受け取るお札の数で、エルは勝っているのだとわかった。
「おいおいおい、全勝してるじゃないか」
「イカサマでもしてるんじゃないか?」
頭を抱える貴族たちに、「してませんよ」とエルは淡々と言った。結局ゲームはエルの独壇場となり、しらけたのかゲーム開始から二時間ほどで、貴族の一人が終わりを告げた。
帰りの辻馬車の中で、エルが稼いだポンド札を数える。全部で六〇ポンド。一夜にしてこれだけ稼ぐなんて、想像していなかった。
「エル、すごいね! これだけあれば私一生暮らしていけるよ!」
「一生とはいきませんが、これであと数ヶ月は余裕で暮らせるでしょう」
「それにしてもエル、運が良いんだね。あんなにカードそろえることができるなんて」
「イカサマですよ」
「えっ?」
エルの言葉が最初理解できなかった。だってエルは、普通にゲームをしていたはずだ。唖然としていると、彼は続けて言った。
「ポーカーは心理戦なので元々得意なのですが、念のためイカサマもしておきました。負けたくないですから」
そう微笑むエルに、サラは彼が只者ではないと感じた。格好も何もかも風変わりな上に、頭が良く悪知恵も働く。この時代に来たばかりというのに、一晩でお金を稼ぐ世渡り上手。エルは多分、どの時代に行っても適応するに違いない。
「……エルは、未来では何の仕事をしてたの?」
気になって尋ねる。
「探偵です……事件解決が専門の」
サラははっとしてエルの横顔を見つめた。探偵。それこそ、母の次にサラが求めていた存在だった。
「探偵――探偵なら、依頼したいことがあるの」
「……お母さんのことですか?」
サラは頷いた。エルは墓前で漏らした声を聞いていたのだ。
「お母さんを殺した犯人を、つきとめて欲しい」
「他殺なのですか?」
「うん」
知るにはまだ早いと言われ、母がどうして死んだのか、警察は教えてくれなかった。だから、母が死んだ日の翌日の朝刊を道ばたで拾ったときは、はじめて天に感謝した。記事によると、母は喉の二カ所の深い切り傷によって「頭部が身体から切断されそうになっていた」。
そう話せば、エルはポケットに入れていた手を口元にやり、親指を咥えた。子供がするような所作を大人がしたことに驚いたが、真剣な表情だったため、サラは何も言わなかった。
「……お母さんのお名前は?」
エルの問いに、サラは答えた。
「メアリ。メアリ・アン・ニコルズ」
エルはガリッと爪をかんだ。そして指を離すと、「いいでしょう」と頷いた。
「お受けします」
まさかそんなすぐに引き受けてくれると思わなかったため、反応が遅れた。
「……ありがとう……でも報酬とか必要なんでしょ? 私、お金とか持ってないんだけど……」
「タダでいいですよ」とエルはさらりと言い放った。
「私は興味のある事件だったら無料で引き受けるんです。その代わりと言ってはなんですが、私はこの時代に不慣れなので、一緒に行動してくれると助かります」
明るい兆しがサラの前に見えた。
「えっ、そんなことでいいの? そしたらずっと一緒にいるよ!」
「ありがとうございます」
一緒にいるだけでいいなんて、こちらが逆にお願いしたいくらいだ。
「エルは、すごい探偵だったの?」
エルは只者ではないとわかっていたが、念のために尋ねる。エルはしっかりと頷いた。
「はい。数々の迷宮入り事件を解決してきた、『すごい』探偵です」
サラは思わず「わー!」と歓声を上げた。エルはプロの探偵だ。イカサマをバレずにする手先の器用さ、そしてその頭の良さから「任せられる」探偵だ。サラの胸の高鳴りはしばらく収まらなかった。
シャーロットは案の定、本当に大金を稼いできたエルに驚愕したようだった。
「本当にお金を稼いできたの!?」
「はい。約束の交通費と五ポンドです」
「えっ、二ポンドで良いわよ!」
「感謝の気持ちです、受け取ってください」
シャーロットは躊躇しながらも、お金を受け取った。そしてこちらに屈んだ。
「危ないことはしなかった?」
「うん、エルはポーカーでお金を稼いだんだよ! すごく強かった」
「へえ、ポーカーで」
シャーロットは意外そうにエルを見た。エルを見直したのかもしれない。
別れの挨拶をして再び辻馬車に乗ったときには、あたりに人気はなくなっていた。もう遅い時間なのだろう。早寝早起きの生活をしていたサラは、少し眠くなってきていた。お金があるという安心感もその原因かもしれない。
「サラさんは、いい下宿屋を知ってますか?」
「うーん……ホワイトチャペルにある『リリーズ・ハウス』って下宿屋が、ちょっと高級らしいって聞いたことあるよ」
欠伸混じりにそう話すと、「じゃあそこにしましょう」とエルは即決した。
「眠いですか?」
「うん、ちょっと……」
「下宿屋に着くまで寝てていいですよ」
サラはエルの言葉に甘えることにした。エルの腕に頭を寄せる。彼の体温はあたたかった。探していたぬくもりに出会えた気がした。サラはほっとし、眠りに落ちていった。
目覚めると、見覚えのない部屋のソファに座っていた。そこはサラの住んでいた部屋とは比べものにならないほど広く、豪華な部屋だった。
まず床にはアラベスク模様の赤い大きな絨毯が敷かれ、その上に四脚の肘掛け椅子と一脚の丸テーブル――どこも脚が折れていない――が鎮座している。四方の壁は赤く、向かいの壁には暖炉があり、左右のへこんだスペースには背の高い棚が置かれている。右の壁には絨毯と同じく、アラベスク模様のカーテンに縁取られた二つの窓。その手前の窓の近く、ソファの右隣には机と椅子が一脚ずつある。後ろの壁にはなんと絵画が飾られていた。左を見れば、大きめのベッドが清潔そうなシーツに包まれている。
「目が覚めましたか」
エルがベッドの近くにあったドアを開けて入ってきた。黒髪は濡れ、首に掛かったタオルの上に雫が滴っている。
「……ここは?」
「サラさんの言ってた下宿屋です」
こんなに広く綺麗なところだったのか。一瞬自分がここに泊まっていいのかと物怖じしたが、エルと行動するためならいいのだと自分で自分を納得させた。
「なんで髪濡れてるの?」
「先にお風呂に入ったんです」
「お風呂?」
聞いたことはあるが、それが何かは知らなかった。「こっちにあります」とエルに案内される。
開かれたドアの向こうには、見たことのない陶器の大きな容器があった。
「これは?」
「浴槽といって、この中にお湯を入れて身を清めるんです」
「裸になってお湯の中に入るの?」
「そうです」
今まで石鹸とタオルを使って身体を拭いていたため、裸になってお湯に入るということが信じられなかった。
「えっ、このお湯は暖炉か何かで沸かしたの?」
「いえ、ここには給湯設備があるので蛇口をひねればお湯が出てきました」
これまた信じられなかった。蛇口をひねるだけでお湯が出てくるとは、いったいどういうことなのだろう。
「まあ、入ってみてください。気持ちいいですよ」
エルに促され、抵抗はあったけれど、サラもお風呂に入ることにした。「気持ちがいい」と言った彼の言葉を、信じることにしたのだった。エルが出て行った後、ワンピースを脱いで脇にあったかごの中に入れる。
浴槽は大きいけれど深さはなく、溺れる心配はなさそうだった。そろそろと足先をお湯の中に入れる。同時にじわっとちょうど良い温度のお湯が、冷たい皮膚に染み渡った。これは、全身を入れたらとても気持ちいいだろう。サラは思い切って身体をお風呂の中に入れた。
身体全体が喜んでいるかのようだった。首元から足先まで、温もりが包んでくれる。この世にこんな極楽があったなんて。
馬車といい、お風呂といい、世の中にはなんて便利で心地良いものがあるのだろう。
お風呂から上がると、エルは窓に近い肘掛け椅子に座り、夕刊を読んでいた。エルが肘掛け椅子にあの変な格好で座っているのは、なぜだか自然だった。肘掛け椅子が大きいからかもしれない。
彼の髪は先ほどより乾いていた。それだけ長い時間、自分がお風呂に入っていたことに気づく。
恐る恐るベッドに腰掛けると、ふかっと柔らかく腰が沈んだ。固いマットレスしか経験のないサラには新鮮だった。このベッドもまた、「心地良いもの」だ。寝そべればさぞ気持ちいいだろう。
早く寝てみたくて、「寝ないの?」とエルに聞いてみる。エルは「私はもう少し起きてます。サラさんは寝てていいですよ」と言って、あちこちにあった蝋燭の火を消してくれ、机上にあったランプを彼の前にある丸テーブルに移動した。
遠慮がちにシーツの中へ潜り込む。寝心地はやはりよく、石鹸の匂いがした。ベッドの中からエルのほうを見る。彼もまたサラを見ていたらしく、ばちりと目が合った。
「……明日は、サラさんの服を買いに行きましょう」
「えっ、ありがとう」
まさか自分の服を買ってくれるとは思わず、耳を疑ってしまう。服と言えば、今着ている古着のワンピースと、宿泊所にある厚手のコートしか持っていない。どちらも母が選んで買ってくれたものだった。
エルは「いえ」と短く返すと、「おやすみなさい」と挨拶してくれた。
サラもまた挨拶を返し、目を瞑る。今日は未来から来たエルと会ったり、馬車に乗ったり、貴族からお金を巻き上げたり、お風呂に入ったりと、いろいろなことがあった一日だった。先ほども眠ったが、疲れは取れていなかったようで、また眠くなってきていた。二、三度寝返りを打つと、すぐに眠りに吸い込まれていった。
――何かが追ってきている。
濃い霧を突き抜けるように、サラは走っている。視界が悪く、どこを走っているのかまったく見当が付かない。ただ、後ろから聞こえる足音の主から逃げなくてはならない。本能的にそう思った。
息が切れる。心臓が波打つ。脚がもつれる。
振り向くも、視界が悪く追っ手の姿は見えない。前を向いた瞬間、何かとぶつかった。石畳に倒れ込む。
――危ない、このままじゃ……。
追っ手の足音は一定だ。このままでは捕まってしまう。殺されてしまう――。
「サラさん」
どこからか声が聞こえた――。
サラは大きく目を開いた。黒い瞳がベッドの上からのぞき込んでいる。
「おはようございます」
「……おはよう、エル」
「大丈夫ですか? 何かうなされてましたが」
「うん、怖い夢を見たの」言いながらベッドから起き上がる。
「冷や汗をかいてますよ」
「大丈夫」
心配はかけたくなくて、平気な顔を装って笑った。
「今何時?」
「六時半です。そろそろ朝食を取りに行きましょう」
「どこに?」
「一階へです。この下宿の女主人が用意してくれます」
下宿は朝夕のご飯を用意してくれるのだそうだ。やはり、高級な下宿屋だ。
朝食は想像していたよりも豪華なものだった。ボロボロにならないパンに、牛乳の入ったポリッジ、卵焼きにベーコン、そしてフルーツ。サラは夢中になって食べた。
「こんなにお腹いっぱいになったの初めて……」
エルは目玉焼きの黄身を潰しながら「よかったですね」と言った。彼の口の端には黄身が付いている。それを指摘するとエルはぺろりと舌を出して拭った。子供っぽい仕草に笑った、そのときだった。
「殺し(マーダー)! 殺しだ(マーダー)! ハンバリー・ストリート近くで殺しがあった!」
そう叫ぶ少年の声が窓の外から聞こえてきた。晴天にふさわしくない叫びだった。
「殺しって……」
「行きましょう」
立ち上がったエルに連れられ、すぐに下宿を出た。
歩いてハンバリー・ストリートに向かうと、すでに周辺に住む住人が集まっていたため、現場がどこか一目でわかった。現場はどこかの家の裏庭だった。
エルがどんどん人混みをかき分けるため、サラは必死で彼について行った。そして人混みが開けたとき、どす黒い赤が目に飛び込んで来た。それが何か認識する前に、今度は目の前が真っ暗になった。手で両目を覆われたのだ。
「見ちゃだめです」
エルの声が近くから聞こえた。きっと先ほどの赤は血の赤だったのだろう。遺体が目の前にあるのだ。目を覆われたまま、隅のほうに誘導される。
「……サラさんはここにいてください。後ろを向いて、目を瞑っていてください」
「……わかった」
エルが手を離したのが瞼の裏の光でわかった。そして、足音とともにエルが去っていく。やがて彼の声が離れたところから聞こえてきた。
「……死亡推定時刻はいつ頃ですか?」
違う男性の声が答えた。
「血が凝固しかけてますから、二時間から一時間前くらいかと……って、あなた誰ですか!?」
彼の驚く声を聞いたのか、二つの足音がやってきた。そして太い声が叫んだ。
「おい、貴様何をしてる! さっさと離れろ!」
「……私は探偵です。少し現場を見させてください」
「探偵? そんなの知ったことか!」
「……まあ、いいじゃないか。探偵さんの推理を聞いてみよう」
太い声の主を別の柔らかな声がなだめた。サラはエルが答えられるか心配したが、それは杞憂だった。
「……まず、被害者の手や顔が血まみれであることから、被害者が相当抵抗したと考えられます。腹部がずたずたに切り裂かれてますが、直接の死因は喉の切り傷でしょう。喉の血の凝固が腹部より早い。犯人は喉を切った後、頭部と身体を切り離そうとした。しかし気が変わったのか、ハンカチでわざわざ切れ目を縛った。それから腹部を裂いて、腸を引きずり出し被害者の右肩にのせた……被害者の足下に真鍮の指輪が二つ落ちてますが、これは彼女の左手中指から抜き取ったものでしょう。指に指輪の跡が二つあります。犯人が抜き取ったのか、被害者が抵抗した際落ちたのかはわかりかねますが……」
「なるほど。あの水浸しのエプロンを我々は重大な証拠だと考えているんだが……」
「あれは犯人の物ではありません」
「何っ」と太い声が言った。
「考えてみてください……犯人があの革製エプロンをつけていたとして、犯行後それが血まみれになったとする。それをあの水道で丹念に洗い、その上そこに捨て去るなど、普通はしないでしょう。犯行が終わればすぐにこの場を去りたいはずです。あれは誰かが捨てたものかと」
エルの推理に、サラは感心した。やはりエルは優秀な探偵なのだ。柔らかい声の主も感心したようだった。
「確かにそうも考えられるが……しかし、なぜハンカチで首と胴を縛ったんだ?」
「さあ……私には人殺しの心理はわかりません。ただ一つ言えることは、この殺人はメアリ・アン・ニコルズを殺した犯人と同じ可能性が高いということです」
「ああ、我々もそう見ている……君の名前は?」
「エルです」
「エルか……私はヤードの主任警部、フレデリック・アバーラインだ」
握手でもしているのか、沈黙が漂った。やがてエルの声がした。
「私はあそこにいる少女に、この連続殺人事件の犯人を捕まえて欲しいと依頼されてまして」
急に自分の話になり、サラは身を堅くした。視線が後ろから刺さるのを感じる。
「あの少女は……確かメアリ・アン・ニコルズの娘だったな」
「そうです。なので、聞き込みの結果などを教えていただけると助かるのですが……」
アバーライン主任警部は少し迷ったようだったが、やがて言った。
「……いいだろう、今回限りだ。君の住んでいるところは?」
「ホワイトチャペルにある『リリーズ・ハウス』です」
「ああ、あの下宿屋か……今日手紙か人を送る」
「ありがとうございます――これから少し用事があるので、人を送っていただけるのであれば、午後以降でお願いします」
「わかった」
すんなりとエルの要望が通ったことに、サラは驚いた。それもスコットランド・ヤードの主任警部に。警察もエルを認めたということか。
エルの足音――彼は靴の踵を踏んでずるずると歩くためすぐにわかる――がこちらに近づいてきた。ぽんと肩に手が置かれる。
「行きましょうか」
「警察と一緒に捜査しないの?」
「……少し向こうの様子を見ます」
なぜ様子を見るのかわからなかったが、エルにも考えがあるのだろうと、深くは聞かなかった。
後ろは振り向かずに再び人の海に入り、ハンバリー・ストリートへ出た。
「とりあえず、サラさんの服を買いに行きましょう。ついでに私も上の服が欲しいです」
自分の服装がこの時代に合わない物と感じたのだなと思い、「シャツとか?」と聞いたところ、「いえ」と否定された。
「この長袖と同じ物が欲しいです……まあ、ないでしょうけど」
エルは自分が着ている服にこだわりがあるらしい。
「この辺で駅はホワイトチャペルにしかありませんか?」
「うん、確かそうだと思う」
サラは駅を利用したことはないため、確かなことは言えない。エルは「じゃあホワイトチャペルに戻りましょう」と言った。
「汽車に乗ってメイフェアに行きます」
「メイフェアって、どこ?」
サラはイーストエンドを出たことがないため、他の区域には詳しくなかった。
「ウエストエンドにある高級服街です」
「えっ、もしかして仕立てるの?」
「サラさんの服はすぐに欲しいので既製品になると思いますが、私の服が既製品でなければ仕立ててもらおうかと」
なるほど、エルは未来では相当なお金持ちだったらしい。大金の使い方を彼は知っていた。
ホワイトチャペルに戻り駅の中へ入る。初めて入る構内に胸が躍った。イエロー掛かったレンガ造りの構内は薄暗く、その先のホームは屋根がないため開かれていた。エルが窓口で切符を買う間、サラはホームに汽車が来るのを今か今かと待っていた。何せ、汽車を間近で見るのも初めてなのだ。
エルに促されホームに行くと、ちょうど遠くから独特な音が聞こえてきた。その方をじっと見つめる。音を立ててやってきたのは、黒塗りの大きな顔。歯ぎしりのような軋りを鳴らしながら噴煙を上げる様は、まるで獣のようだ。目の前に止まるのか疑問だったが、それはきーんと、最後の抵抗のような軋りを一層上げて、スムーズに止まった。
「これに乗りますよ」
エルは駅員に聞いたのか、乗るべき汽車を知っていた。人々とともに汽車に乗り込む。ホームと汽車の間に隙間があったが、エルが手を貸してくれたおかげで乗ることができた。
中は木でできた椅子が両端に伸びていて、人々はそこに腰掛けていた。エルと一緒に手近なところに座る。座ってみると隣の人との間隔がなく、脚を少し上げただけで前の席に座る女性のスカートがめくれそうだった。エルはいつものおかしな座り方ではなく、普通に座っていた。
「あの座り方じゃないんだ?」
「さすがにこの状況で、あの座り方はできませんから。それにしても窮屈ですね、馬車の方が良い」
サラも同感だったが、汽車が走り出してすぐに考えを改めた。窓の外を駆ける風景は馬車と比較できないほど速く、その楽しさは乗り心地の悪さを凌駕した。サラはもっと乗っていたかったが、二駅ほどで目的地に着いてしまったらしい。エルが「降りますよ」と立ち上がった。
駅を出ると、そこはホワイトチャペルよりももっと都会だった。レンガ造りの比較的新しい建物が並び、歩く人々も、皆タウンハウスを持っていそうな、仕立ての良い服を着た紳士や淑女だ。街頭商人の姿もあったが、羽振りが良いらしく、イーストエンドの商人たちより綺麗な身なりをしていた。
初めての街を見回しながら歩いていると、エルが何気なくある店へ入った。サラも慌ててついていく。中には既製品と思わしき服がたくさん並んでいた。古着ではない、新品の服だ。
「いらっしゃいませ……」
奥からぱたぱたと女性店員が現れた。自分たちを見た瞬間、その笑みがはがれ落ちる。サラは落ち込んだりしなかった。この対応はパブで経験していたからだ。エルも気にしていないらしく、滔々と言った。
「この子に肌着など、服を一式見繕ってもらえませんか。お金ならあります」
エルが札束を見せると、店員は再び笑顔に戻った。
「そういうことでしたら、お任せを。お嬢さん、こちらへどうぞ」
店員はてきぱきと服を見繕っていった。時折サイズを見るためサラの身体に服を当てたり、好みの色を聞かれたりした。好みの色など考えたことがなかったサラは、とっさに「白」と答えてしまった。エルの長袖が頭に浮かんだのだった。
エルはエルで、着ている服と似たような服を探していたようだったが、見つからなかったらしい。店員が持ってきたサラの服だけ三着買い、エルの勧めで着替えさせてもらった。
肌着など初めて着るため、動きにくく窮屈に感じたが、店員に勧められた白のワンピースにはフリルがあしらわれ、着ているだけで上機嫌になりそうだった。ついでにジャケットと靴も買い、サラは一気に労働者階級の孤児から中流階級のお嬢さんへ変身した。
新しいブーツを鳴らして石畳を歩く。風が吹く度スカートがふわりと揺れて、それを見る度サラは笑みが抑えられなかった。
「エル、本当にありがとう。服と靴買ってくれて」
「いえ。それなりの格好をしていなければ、これからいろんなところに行くのに不便なので……」
エルはどうなのだ。
そう指摘しようとしたとき、横から「サラ?」と声をかけられた。立ち止まってそちらを見る。ドルイットが店先に立っていた。
「ドルイットさん!」
彼は自分の姿に目を丸くしていた。
「どうしたんだい? すっかりかわいいお嬢さんじゃないか!」
「エルが……この人が買ってくれたの!」
隣にいるエルを指すと、エルは「どうも」と軽く会釈した。ドルイットはエルの風貌に一瞬驚いたようだったが、それを隠して挨拶を返した。
「エルは、サラの知り合いかい?」
「うん、最近知り合ったんだ」
エルが未来人だと説明するのは気が引けた。その話が広まれば、下宿屋に人が集まったり、自由に出かけられなくなったりと、面倒なことになりそうだからだ。エルと示し合わせたわけではないが、サラはそこまで気を回した。
「じゃあ僕は用事があるから行くよ……機会があれば三人で食事でもしよう」
そう言い残し、ドルイットは去って行った。
「あの方は?」
「私が花を売ってたときによく買ってくれた常連さんだよ。優しいいい人なの」
エルはドルイットの後ろ姿を見ながら「そうですか」と相づちを打った。そして再び歩き出した。
「あの店に私の欲しい服はなかったので、今度は仕立屋に行きましょう」
仕立屋では、上等なスーツを着た白髪の老紳士が出迎えてくれた。
「いらっしゃいませ。どんなスーツをご所望で?」
やはり、仕立屋はスーツを仕立てるところらしい。出た方が良いのではとサラはエルの長袖の端を引っ張ったが、エルはそれを無視した。
「この服と同じ物を仕立てて欲しいのですが……」
「はい?」と老紳士は聞き返す。エルは長袖の襟元に手をやり、繰り返した。
「この服と同じ物が欲しいんです」
「あ……はい、わかりました」
渋々といった様子で老紳士は頷いた。
「では、その服を脱いでいただいてもよろしいですか? 生地などを確認させていただきたく……」
エルは両手を挙げて服を脱いだ。肌着を着ておらず、突然現れた肌にサラはぎょっとする。老紳士も目を丸くしたが、それは一瞬のことで、すぐに元の落ち着いた表情に戻った。さすがはプロである。
老紳士は服を受け取り、生地を確認した。
「これは……何が使われているのですか? 触ったことがない」
「たぶん、ポリエチレンです」
「ポリエチレン? それはいったい?」
「化学繊維です」
老紳士は「化学繊維」について詳しく聞きたそうだったが、エルに遮られた。
「夜になると寒いので、ウールで作ってもらっても良いですか?」
「……かしこまりました」
老紳士はエルの肩幅などを手早く測ると、「明後日取りにいらしてください」と言った。
「明後日ですか、早いですね」
「ええ、既製品に負けてられませんから。それにスーツではなくこの長袖でしたら早く作れるんです」
確かに、最近では工場で既製品を大量生産していると、新聞に書いてあった気がする。老紳士に「頑張って」と心の中で応援し、サラたちは仕立屋を後にした。
「店の時計は一二時をさしてましたが、お腹はすきました?」
今朝はたくさん朝食を食べたため、あまりお腹はすいていなかった。首を振ると、エルはこう言った。
「私もすいてないので、次の用事を済ませましょう」
「次の用事って?」
「新聞社に行って、広告を出してもらうんです」
新聞に広告を出すという考えに、サラは驚いた。おそらくイーストエンドの商人たちは、誰もそれを思いつかないだろう。
「何の広告を出すの?」
「この連続殺人についての情報を求める広告です。真偽は別として、今はとにかく情報が欲しい」
「警察に教えてもらえないの?」
聞き込みの結果を教えてもらう約束になっていたではないか。そう話せば、エルは首を振った。
「今回限りと言ってましたし、それに警察は信用できません。主任警部はともかく、あの刑事は私を不信しているでしょう……実を言うと、この連続殺人事件は私のいた未来でも有名なんです」
サラはまじまじとエルを見た。それはどういう意味だろう。深く聞きたかったが、エルは「ここで言う話ではないですね」と切り上げ、指笛を吹いた。
エルはスター紙に広告を掲載したいようだった。イーストエンドでも読まれている大衆紙であることと、メイフェアから近いと御者に聞いたためだ。
スター紙の会社は、確かに近かった。馬車に揺られて一〇分も経たないうちに着いてしまった。
スター新聞社は厚みのあるレンガでできた、三階建ての建物だった。入り口の上部には「スター新聞社」と看板があり、そこが会社であることを主張している。
――子供である自分が入っていいのかな?
サラは中に入ることを躊躇った。二の足を踏んでいると、さっさと扉を開けたエルが振り返る。
「入らないんですか?」
「……私も入っていいの?」
エル一人でも用は済むと思われた。入らなくてもいいと言われたらどうしよう。急に不安になり、緊張気味に問いかける。エルは少し表情を緩めた。
「もちろん、入っていいんですよ。一緒に行動してくれと言ったじゃないですか」
エルは自らが決めた約束を曲げなかった。必要とされているようで無性に嬉しくて、サラはエルのいる入り口へ駆けた。
新聞社のエントランスは広々としていた。ソファと肘掛け椅子、そしてテーブルが右端にワンセットで並んでいた。
どこからかコツコツと革靴の音がやってきて、黒のスーツを着た男性が現れた。彼もまた、エルの格好に驚いたようだったが、すぐに上品に微笑んだ。
「こんにちは。何か御用でしょうか?」
「広告を出したいのですが……」
「広告ですね、今担当者を呼びますので、そちらに掛けて少々お待ちください」と男性はソファの方を指した。
「ありがとうございます」
サラたちは言われた通り、ソファに腰掛けた。受付の男性が階段を上がり、しばらくしてめがねをかけた、ひょろりと背の高い男性を連れて戻ってきた。エルが立ち上がったのを見て、サラもさっと立ち上がる。
「はじめまして、ジョージ・ウィリアムズです」
「エル・ローライトです」
二人が握手を交わす。自分とは握手しないだろうとサラは油断していたが、ウィリアムズはそのまま手を差し出してきた。
「……サラ・ニコルズです」
自分の名前を言うのに、こんなに緊張したことはない。
挨拶が終わり、三人は腰を下ろす。
「広告を出したいと聞きましたが、どの面に出したいのですか?」
「一面に出したいです」
「一面ですと一ポンドですが……」
「大丈夫です」
「どのような文言で?」
ウィリアムズが紙と万年筆をエルのほうに置いた。エルはさらりとペンを走らせる。覗き見ると、こんな文言だった。
八月三一日及び九月八日にイーストエンドで発生した売春婦連続殺人事件について、事件に関する(関連すると思われる)情報を持つ方は以下の住所までお越しください(手紙でも可)。有益な情報をくださった方には謝礼を差し上げます。
ホワイトチャペル一四番地 リリーズ・ハウス
探偵 エル・ローライトまで
「これでお願いします」とエルは紙を摘んで男性へ渡した。目を通した彼はやはり、エルを凝視した。
「……探偵、でいらっしゃるのですか?」
「そうです。この事件を追ってます」
男性はエルを見直したようだった。彼のエルを見る目が変わった。男性は何か聞きたそうに口を開いたが、言葉を発する前にエルが遮った。
「今日の夕刊に載せてください。こちら、一ポンドです」
お札を渡し、エルはドアへ向かう。サラは男性に一礼して、エルの後に続いて新聞社を出た。
「あの人、何か聞きたそうだったけど、出ちゃってよかったの?」
扉を閉めながら尋ねる。エルは「よかったんです」と断言した。
「きっと、事件の推理を聞こうとしてたんでしょう。私の推理はまだ固まってないですし、言いふらすものではないので、話したくなかったんです」
さすがはプロの探偵だ。サラはエルに、探偵としての矜恃を感じた。
「でもエル、今日殺された人が売春婦だってどうしてわかったの?」
エルが書いた文面には、「売春婦連続殺人事件」とあった。現場からそうとわかったのだろうか。期待しながらエルを見ると、彼は「ああ、それは――」と言いかけて、ふと口を噤んだ。
「この話は下宿で話しましょう」
サラは気になったが、ここで話したくないのなら仕方がない。その件について触れるのをやめた。
新聞社を出ると再び汽車に乗り、ホワイトチャペルへ戻った。ヤードから手紙が届いているかもしれないため、下宿に一旦帰ることにしたのだ。
下宿屋の扉を開ける前に、エルは「嫌な予感がします」と言った。
「嫌な予感?」
「会いたくない人が中にいる気がします」
ともあれ、扉を開けなければ入れない。エルは決意した様子でドアを開けた。
中にはヤードの制服を着た、口ひげを生やした男が葉巻を吹かしながらどっかりと座っていた。
「やっと戻ってきたか!」
その声は現場で聞いた太い声と同じだった。
「あなたは――」
「部長刑事のシックだ。今のところの報告に来た……ったく、なんで俺がこんな役……」
愚痴をこぼしながら、椅子に掛けるようこちらに促した。
「お、嬢ちゃん、きれいなかっこになったな」
「エルが買ってくれたの」
「ほう?」とシックは片眉を上げてエルを見た。
「金持ちには見えねえが……」
エルは答えず、本題に戻した。
「それで、報告というのは……?」
シックは不機嫌そうな顔で葉巻を机上の灰皿に潰し、話し出した。
「……まず、今日の二時から検死解剖が行われた。こないだの売春婦殺人――嬢ちゃんの母親の事件だな――の時と同じ刃物が使われているが、今度は子宮、膣の上部、膀胱の三分の一が完全に切り取られていた。『これは明らかにこの種の作業に熟練した者の仕業で、解剖学的見識を持たなければ短時間でできない』と担当したフィリップス医師は言ってる。被害者は通称『ダーク・アニー』。この付近でよく知られた売春婦だったようだ」
エルが言った通り、母と同じ売春婦がまたも犠牲になった。
「最後にアニーを見かけたのはハンバリー・ストリートの公園管理人の女房、エリザベス・ロンク。午前五時半、アニーは二九番地の道路の端を男と話しながら歩いていたそうだ。その男は四〇歳前後、色黒でひげを生やし、黒のフェルト帽に黒のコートを着ていた。外国人訛りがあったらしい」
「……その証言は信頼できるんですか?」
シック部長刑事は苦笑いを浮かべた。
「それが、アバーライン主任警部が直々に尋問したんだが、ロンクは馬鹿な上にアルコール中毒で相当酔っててな。あまり信頼できるものじゃない……それでも犯人らしき人物を目撃した証言は他にないからな。彼女の証言を元に人相書を作る」
「信頼できないのに、ですか?」
「人が二人、同じ人間に殺されてんだ。そろそろ人相書くらい公表しないと住民に非難される」
「それと」とシック部長刑事は言葉を続けた。
「レザー・エプロンについてだが、俺たちはやはりあれが重要な犯人の証拠だと考えている。犯人が落とした可能性もあるからな」
エルは何も言わず、シック部長刑事の話を聞いていた。
「マルベリー・ストリート二二番地に、『レザー・エプロン』のあだ名を持つ男がいる。靴職人だ。そいつはユダヤ系ポーランド移民でこの証言にも一致する……俺たちは近々そいつを逮捕する――報告は以上だ」
シック部長刑事は用は済んだとばかりに立ち上がった。
「何か質問は?」
「ありません」
シック部長刑事はエルの毅然とした態度に眉を上げたが、何も言わず下宿屋を出て行った。代わりに、わざと大きな音を立ててドアを閉めていった。
「……あの人、なんかやな感じだったね。エルの予感は当たってた」
「そうですね……やっぱり警察は全く話になりませんね」
エルはため息交じりに呟いた。
「どんな報告をしてくるか様子を見たのですが、てんでダメですね。酔っ払いの証言で人相書を書く上に、私の言葉を無視して『レザー・エプロン』を逮捕する……ヤードには馬鹿しかいません」
毒を放つエルにぎょっとするも、その横顔に怒りは見えなかった。ただただ、呆れかえっている。
「我々は我々で犯人を追いましょう。それが最善です」
サラは頷いた。子供であるサラでも、ヤードの言ったことは理にかなっていないとわかった。
「うん……犯人はどうして売春婦を狙うんだろう?」
「夜の人気の少ない街頭に立つ売春婦は、標的として最適なのでしょう。誰もいない路地裏に刃物を当てることで連れ込むことができる」
母もそうだったのだろうか。犯人に後ろから首にナイフを当てられ、脅されてバックス・ロウの袋小路に――。
「大丈夫ですか?」
顔色が悪かったのか、エルが顔をのぞき込んできた。「大丈夫」と答える。
「お母さんがあんな死に方をして、辛い気持ちはわかります……絶対に私が犯人を捕まえますから、安心してください」
エルは薄い笑みをこちらに向けた。不安と恐怖に入り混じった心がほぐれていく。微笑みを返すと、エルはすっと椅子から降りた。
「早速聞き込みに行きましょう。もっといろんな証言を聞きたいです」
ハンバリー・ストリート二二番地に赴き、サラとエルはしらみつぶしに家々を当たった。サラたちを警戒し、すぐにドアが閉められることもあったが、ほとんどの人々は喜々としてアニーについて話した。この事件に関与しているという優越感にも似たものが、彼らの口を軽くさせたのかもしれない。
得られた証言は、次のようなものだった。まず午前一時四〇分、宿泊所の主人ドノヴァンは宿の台所の火のそばにアニーが座っているのを見つけた。「お金の持ち合わせがなく、泊まれない」と言った彼女は、午前二時にお金を稼ぎに出て行った。
事件のあった場所に住むリチャードスンは午前三時に目覚めたが、何も異常な物音を聞かなかったと言った。荷馬車の御者トンプスンは午前四時に起き、四時半に家を出たが、裏庭に人気はなかったらしい。午前五時一五分、塀を隔てて隣に住むアルバート・カドッシュが裏庭に出ると、塀の向こうで「いや!」という女性の声と、数分後に何か重い物が塀にぶつかる音を聞いたという。しかし彼はそれを気にも留めなかったと渋い顔で話した。
「なぜ、気に留めなかったんですか?」
エルが尋ねると彼は答えた。
「仕事の時間が差し迫っていたから、そんな余裕なかったんだ。今は後悔してるよ、アニーを助けられたかもしれないから」
そして五時半、エリザベス・ロンクが男と話すアニーを見かけた。シック部長刑事の言うとおり、サラたちが彼女の家を訪ねたときも、ロンクはかなり酔っていてろれつが回っていなかった。エルは念のため確認した。
「九月八日午前五時半頃、アニーと男を見かけたんですよね?」
「うーん、言われてみればそんなような気がするねえ……」
ロングは話にならないとエルは瞬時に判断したらしく、サラたちは彼女の家を去った。
第一発見者の運搬人夫ジョン・デイヴィスは、午前六時五分頃遺体を見つけたと言う。
「犯人らしき者の足音などは聞こえましたか?」
「いや……聞いてねえな。辺りに人の気配はなかった」
家々への聞き込みが終わった頃には、もう日が暮れかけていた。一九時半を回ったということだ。下宿屋に戻って夕食を食べた後、自分たちの部屋へ上がる。
「良い証言は得られませんでしたが、アニーさんの友人の情報を仕入れられましたね」
住民からの情報で、アニーの友人、アメリア・ファーマーの名前と住所がわかった。先ほど彼女のいる簡易宿泊所に行ってみたものの、留守だった。
「明日、もう一度彼女を訪ねてみましょう。いろいろと聞きたいことがあります」
すでにエルは質問すべき事柄をわかっているようだった。
「ヤードもアメリアさんについて知ってるのかな?」
「知ってると思いますよ。被害者についてある程度聞き出したはずです」
それでも犯人に繋がる情報は得られなかったということか。
「……やっぱり、この事件は難しいの? 警察も手こずってるみたいだし」
「そうですね……私はこの事件を無差別の快楽殺人と見ていますが、経験上、そういった事件は犯人を特定するのが難しいです」
「……そうなんだ」
サラの心は沈んだ。エルを信じていないわけではないが、難しいのなら捜査は難航するかもしれない。しばらくしてエルが口を開いた。
「……先程も言いましたが、未来でもこの連続殺人は有名なんです。その残虐さと、未解決で終わった事件として」
「えっ?」
思いがけない話に瞠目する。
「被害者は全部で五名。サラさんのお母さん、アニーさん、そしてあと三名がこれから殺されます。全員が売春婦です」
サラは言葉も出なかった。
「警察は――ヤードもシティ警察も――最後まで犯人を逮捕することはできませんでした……私は子供の頃に興味を持って資料を読んだりしましたが、現在の話ではなかったので犯人の推理まではしてませんでした」
「誰が犯人候補だったとか、覚えてる?」
「なにぶん子供の頃だったので、覚えてません……被害者が殺される具体的な日付も。第一の被害者、サラさんのお母さんの名前はかろうじて覚えていた程度です」
「これから三人も殺されるって、本当……?」
「残念ながら本当です。三人が殺される前に、犯人を見つけたいと思ってます」
「サラさん」とエルはこちらに向き直った。
「サラさんのお母さんがどんな人だったか、どんな状態で発見されたのか、お話ししてもらえませんか」
サラはベッドに腰かけ、母のことを洗いざらい話した。
母は享年四二歳。キャンバーウェルに生まれ、父は鍛冶屋を営んでいた。三二歳の時に、サラの父、ウィリアム・ニコルズという印刷工と結婚した。しかしサラが生まれて少しして、父が亡くなった。
それから母は大きな屋敷でメイドをしていたが、一ヶ月もすると飲酒癖が出てきた。そして困ったことに、母は雇い主から三ポンド盗み、サラと共にイーストエンドに逃げた。その後は娼婦をしながら、パブに入り浸っていた。
母はお金を盗んだことを後悔していないようだった。そんな手の施しようがない母親だったが、サラを愛してくれていたと、エルに伝えた。サラのことを考えていなかったわけではないのだと、釈明したかった。
肌身離さず持ち歩いていた記事もエルに見せた。
喉には二カ所の深い切り傷があり、鋭い刃物で無残に抉っている。傷は左耳下から喉の中央に及び、もう一つの傷は右耳下にまで達している。深く長い傷口のため、頭部が身体から切り離されそうになっていた。そして大きく鋭いナイフは、被害者の下腹部を二度にわたって抉っている。かくも恐ろしい所業は人間の仕業と思えない。
ルウェリン医師が検死に立ち会い、すべての傷が右から左へ走っていることから、犯人は左利きであること、凶器は長く幅の広い細工用ナイフで、犯人は解剖学的知識のある者と、彼の意見も書かれていた。
「左利き……アニーさんの遺体には、右から左へ走っている傷は一カ所しかなかったですね……記事を読んで犯人が抉り方を変えたのか……」
母が稼ぎに行くため部屋を出たのは午前一時頃のことだった。その後の目撃情報も記事には載っていた。オズボーン・ストリートの角の壁に、酔っ払ってもたれ掛かっているのを、母の知り合いのエミリー・ホーランドが目撃している。エミリーは「もう遅いから宿に戻ろう」と説得したものの、母は「もう一稼ぎしてから帰るよ」とバックス・ロウへ歩いて行ったという。それが午前二時半のことだった。それから一時間半後に、遺体で発見された。
「悲鳴や物音は付近の誰も聞いていなかったんですね……血だまりは現場にしかなかったことから、悲鳴を上げる前に喉を掻き切ったと考えられる」
エルはそう呟いた。
「今のところの犯人像としては、①左利き、もしくは両利き、②解剖学に通じている者、③ナイフを使い慣れている者、④この辺に土地勘がある者くらいですね……考えられるのは医者、屠者、それからギャングでしょうか……」
「ギャングは、この辺ならオールド・ニコル・ギャングが有名だよ。よくお母さんみたいな娼婦を脅して、その稼ぎを巻き上げてるみたい」
「そうなんですね」とエルは相づちを打った。
「ただ、貧民から金を巻き上げる、程度の低いギャングの中に、解剖学に通じる者がいる可能性は低い。医者か屠者……医者が一番可能性がある……明日はアニーさんの友人から話を聞きましょう。あとはどのくらい情報を仕入れられるか……」
エルは今日の夕刊を広げた。一面の下の方に、エルが出した広告が載っていた。