午前七時。透桜子は携帯の目覚ましで目が覚めた。起き上がり、一階に降りる。
居間にはエルの姿はなかった。今日は寝てくれたのだろう。空のソファに安堵する。昨日も自分が先に眠り、彼が寝たかはわからなかった。
顔を洗い、朝食を食べ歯を磨く。昨日よりもきちんと化粧を施し、制服に着替える。時刻は午前八時。あっという間に家を出るべき時間。
「行ってきます」
起こさないよう小声で言い、家を出た。昨日の朝と同じく、天気は曇っている。違うのは、折りたたみ傘を鞄に入れていることだ。病院は駅前にあるため、電車には乗らなくていいが、雨に降られると困る。
――市原さんの傘、週末に返さないと。
市原さんは両親を知っている。だからか、自分によく気をかけてくれる。ありがたいと思う反面、親切をされるたび、申し訳ない気持ちになる。市原さんは、「勝手にした親切を返さなくていい、そういう性分なのだ」と言ってくれるが、そういう訳にもいかない。お茶菓子などをお礼に返すと、市原さんは毎回、「いいのに」と言い、申し訳なさそうに受け取る。ご近所付き合いはなかなか大変である。
一七歳で両親を亡くし、一〇年間結婚もせず一人で暮らしている自分は、近所からどう思われているだろう。時々考えることがある。傍から見れば、不憫に見えることもあるのだろうか。
透桜子は一人の暮らしに満足している。エルとの二人暮らしにも、慣れてきたところだ。慎ましい生活だが、ささやかな幸せをそこに感じる。これ以上のものは、何も望まない。

職場から出た時の空は、雲間から夕暮れの朱い光が差し込んでいた。
「お疲れ様でした」と同僚たちに挨拶し、自宅への道を歩く。今日の献立は何にしようか。まだ野菜も魚もあったため、商店街へ寄ることはなくまっすぐ帰った。
「ただいま」
玄関を開けて、数年ぶりの言葉をかける。返事はない。居間を見ると、朝と同じくエルはいなかった。まだ寝ているのだろうか。エルの部屋は襖を隔てた向こうにあったが、寝ているのなら起こさないほうがいいと思い、夕飯を作り始めた。
エルは、夕飯を作り終わった後も起きてこなかった。さすがに起こしたほうがいいかと考え、エルの部屋を開けた。彼は、部屋にもいなかった。敷いていたはずの布団も消えてしまっている。
嫌な予感がした。家の全室を調べて回る。押し入れの中、クローゼットの中も。けれど、エルの姿はどこにもなかった。
料理にラップをかけることもせず、透桜子は外に出た。近くの公園などを隈なく探す。市原さんにも聞いてみようと、彼女の家のインターホンを鳴らした。誰も出てこない。三度鳴らして気が付いた。彼女は息子夫婦のところに泊まると、昨日聞いたじゃないか。
エル、と名前を呼ぶ。それは空気を振動させ、空しく消えた。
やはり昨日見たあの横顔は、儚さは、本当だったのだ。エルが消えてしまうと感じた直感は、正しかったのだ。エルは本当にどこかへ行ってしまった。
透桜子は途方に暮れる。二日間しか一緒に暮らしていないが、エルがいないという事実は、自分が思うよりも大きく心を乱した。寂しさが湧いて初めて、エルを家族のように思っていたのだと自覚する。自分は一人で生きていける。一人でも平気だ。そう思っていたのが嘘のようだ。
――私は、あの頃から何も変わってない。
両親が亡くなった頃から。一〇年が経ち、心は強くなったと勝手に思い込んでいた。けれど、実際は何も変わっていない。
気づけば、雨が降っていた。柔らかい、糸のような雨が、包み込むように肌を濡らす。
持っていた携帯を確認する。いつの間にか、午前零時を過ぎていた。
――帰ろう。
自然と足が自宅を向く。エルが自分から消えることを選んだのなら、それに口を出す権利はない。無力さを感じながら一歩踏み出したときだった。
透桜子さん?」
探していた人の声に、振り返る。エルが、立っていた。
「……エル」
安堵感で胸がいっぱいになる。よかった。エルはどこにも行かなかった。自分の元に帰ってきてくれた。
目の前に立つエルは、幻覚などではない。雨で黒髪がしっとりと濡れていた。
エルは、不思議そうに言った。
透桜子さん、どこに、行っていたんですか? 随分探しました」
エルの言葉を疑問に思う。
「私も、エルを探してたんだけど」と言うと、エルも眉をひそめた。
「とりあえず雨が降っているので、透桜子さんの家に戻りましょう」
エルの一言で、一緒に家に戻った。もう叶わないと思い、諦めていたことが実現したため、あまり現実味がない。
タオルを二枚持ってきて、エルと一緒に体を拭いた。初めて会った時のエルよりは濡れておらず、タオルは少し湿っただけだった。
居間のソファに座り、互いの状況を確認し合う。エルは、一日中この家にいたと言った。透桜子の帰りがあまりにも遅いため、二二時頃から外に出て探していたのだという。
「じゃあ、一八時過ぎには家にいたって言うこと?」
「はい」とエルは答えた。家中を探していたときに、エルはいたということだ。それを言うと、彼はますます眉をひそめた。
「私は本当に、ずっと家にいました……おかしいですね」
考えても答えは出ないため、エルは様子を見ようと言った。また、同じ事が起こるかも知れないと。
エルの予感は正しかった。その日は一日エルがいたが、次の日起きると彼の姿はなかった。その次の日も、エルはいなかった。さらにその次の日は、エルがいた。
エルは、憶測を建てた。午前零時ちょうどに雨が降っていないと、互いの姿が見えなくなる、というものだ。どうしてかは、エルにもわからないようだった。
透桜子はそれほど驚かなかった。もともとエルは異世界から来ている。エルの独特な雰囲気もあり、不思議な現象が起こるのは普通に思えた。両親を亡くしてから、透桜子は物事を受容するのが得意になった。

土曜日は曇りで、エルの姿も見えていた。二人で朝食を終えた後、透桜子は傘を返しに市原さんの家を訪ねた。今度は一度のインターホンで、彼女は姿を見せた。こんにちはと挨拶し、いつかの傘を掲げる。
「傘、返しに来ました。本当に、ありがとうございました」
「お役に立ててよかったわ……そうだ」
思いついたように、家の中へ去っていく。戻ってきた市原さんの手には、取っ手のついた、小さな白い箱があった。
「これ、よかったら持って行って」
「ケーキですか?」と箱を見て問う。「そう」と市原さんは大きく頷いた。
「息子のお嫁さんがくれたの! ただ少し数が多くてね……気が利くのか利かないのか、わからないわ」
義娘がくれたことを自慢げに話すが、最後に小さく愚痴をこぼす。血のつながった者ではない家族の短所を、受け入れることは難しい。透桜子は無言を返した。
「ちょうど、二つ入ってるから。竜崎さんと二人で食べて、ね!」
市原さんは満面の笑みを浮かべて、箱をこちらに寄せる。エルの名前を覚えているらしい。断る理由もなく、礼を言って受け取る。その際、市原さんがぐいと顔を近づけてきた。
「ねえ、竜崎さんって本当にいとこなの?」
囁くように尋ねられる。透桜子は笑って答えた。
「そうですよ。親戚のいとこで……市原さんは、会ったことなかったですよね」
「ええ、初めて会ったわ。透桜子ちゃんに同い年くらいのいとこがいるなんて、知らなかった。びっくりしちゃった」
市原さんはその説明で満足したらしく、それ以上エルについて聞いてくることはなかった。
自宅に帰ると、エルは居間でソファに乗り、テレビを見ていた。定位置となりつつある。
「市原さんから、ケーキもらってきたよ」
箱を彼に見せると、エルの目はわずかに輝いた。何のケーキですか、とソファを降りる。その動きはいつになく機敏だ。テーブルに箱を乗せて開くと、中には艶やかなイチゴの乗ったショートケーキと、深い色をしたチョコレートケーキがあった。
「市原さんが、エルと二人で食べてって。エルはどっちがいい?」
「ショートケーキがいいです」
エルは迷わず答えた。
「じゃあ、私はチョコレートケーキで。お昼食べたらにしようか」
「はい」
時計を見ると、一一時を過ぎていた。そうめんを茹で、薬味と天ぷらとともに食卓へ出す。一人なら、昼に天ぷらを揚げたりはしないが、エルがいるなら話は別だ。食費はかさむが、仕方がない。エルのためなら、お金がかかってもいいと思う自分がいる。
「……エルは、草むしりしたことある?」
かぼちゃをつゆに浸しながら尋ねる。そろそろ庭の雑草が伸び始めていた。木を剪定するのに植木屋を半年に一度ほど呼ぶが、草むしりなどはしてくれない。
エルは首を振り、「ないです」と答えた。
思った通りの回答だった。世界的な名探偵から、草むしりという庶民的なイメージは湧かない。
「食べ終わったら、草むしりしようと思って。だいぶ伸びてきたから」
だからケーキはその後にしようかな、と呟くと、エルは何気なく言った。
「手伝いましょうか?」
「えっ、いいの?」
「はい」
そうめんを啜りながら、エルは頷く。手伝ってくれるとは思わなかった。
「すごく助かる! ありがとう」
人数が多いほうがすぐに終わる。心から礼を言った。
皿を片付けた後、汚れてもいい格好をして、縁側から庭へ出る。エルも着替えるか聞いたが、今の格好でいいと言った。ヨニクロで服を買ってから、彼は白い長そでにジーンズというスタイルを崩さない。
手分けして雑草をむしる。エルはつまむようにむしっていたが、それでも根っこからきちんと取れていた。二本指に相当な力を込めているのだろう。想像して笑うと、エルが「何かありましたか?」とこちらを向く。
「いや、エルが指に力こめてるのかなと思うとおかしくなっちゃって……」
「ほら、こうやってつまむようにむしるから」と真似ると、彼はふてくされたように言った。
「私はできる限り、つまむように物に触れたいんです」
思いがけないこだわりにまた笑ってしまった。
「それはエルのこだわり? それとも潔癖症だから?」
「……どちらとも言えません」
答えたくない様子だ。曖昧に答えて彼はそっぽを向く。へそを曲げてしまったようだ。
不機嫌オーラを放つ猫背な後姿に、悪いと思いながらも知らず知らず口角が上がる。面白い人だ。同時に、かわいいと思ってしまう。時々見せる、指をくわえる仕草は母性をくすぐるし、今のように感情的になる一面も持っている。こないだの儚げな横顔を持つ人と、同じ人とは思えない。多様な面を持つ彼を、透桜子はもっと知りたくなった。
草むしりを終えた頃には、午後三時を過ぎていた。汚れた服を着替え、お茶にしようと準備する。エルにはショートケーキ、自分にはチョコレートケーキ。飲み物はもちろん紅茶。縁側に合わないとは思ったが、エルはそこで食べたいと言った。
雑草がなくなり、すっかり綺麗になった庭を見ながらケーキを食べる。地元では有名なお菓子屋さんのケーキ。市原さんの義娘さんは、美味しいケーキをわかっている。
「手伝ってくれてありがとう」
改めてお礼を言うと、エルは「いえ」と短く答えた。それから庭を眺めて、呟くように言う。
「……こうして見ると、やっぱり立派なお庭ですね」
楓やツツジ、百日紅にアジサイ。様々な木や花が植えられ、その間には、岩がちょうどよく置かれている。言われてみると、立派な日本庭園だ。
「祖父がこの家を建てたんだけど、祖母は庭にこだわりがあったみたい。祖母が亡くなってからは、母が手入れして……母もいない今、私が整えてる」
「一人でこの庭の手入れは、大変でしょう?」
気遣うような言葉に、エルを見る。エルはフォークで最後に残ったイチゴを突き刺していた。彼の口の周りには、クリームがちょこんとついている。
「まあ……うん。曇りの日とかに、気が向いたらやってる……クリーム、ついてるよ」
指摘すると、舌でそれを拭いとる。その仕草も子供のようだった。
「……ご両親は、どうしてお亡くなりに?」
「交通事故です。父と母を乗せた車が、信号無視の車とぶつかって」
簡単に説明できる、そんな事故だった。
「何年前のことですか?」
「私が一七の時なので、もう一〇年前です」
エルはそれ以上聞かなかった。ただ、「そうですか」と相槌を打っただけだった。その距離感が、心地よかった。
パソコンを貸してほしい、とエルが言ってきたのは、その日の夜のことだった。見られて困るものはハードディスクに入っておらず、気兼ねなく渡す。
「パソコンで何かするの?」
あまり詮索はしたくなかったが、貸すからには理由が聞きたい。尋ねると、エルはさらりと答えた。
「株がやりたいんです」
「株?」
株など、透桜子にとって未知の領域だった。エルが淡々と話し出す。
「私は探偵をする前――子供のころに、マネーゲームをしてました。当時は日本のバブル景気を読み、私を引き取ってくれた叔父の資産を、二万倍近く増やしました」
「えっ!?」
子供のころに株をやっていたとか、バブルを読んだなら今何歳なんだとか、資産を二万倍増やしたとか。驚きの要素が多すぎて、何から聞けばいいのかわからなかった。
「ちょっと待って……株は誰かに習ってたの?」
「独学です」とエルは当たり前のように言った。
「バブルを読んだってことは……今四〇歳くらい?」
計算して聞くと、エルは苦い顔をした。
「……前の世界は二〇〇四年なので、二五歳――今も二五歳だと思いたいです」
エルも、年をとりたくはないらしい。それにしても。
「二万倍資産増やしたって、すごいねえ」
感嘆しか出てこなかった。
「――なので、マネーゲームには自信があります。透桜子さんのお金を絶対に増やしてみせます……お世話になりっぱなしなのは、性に合わないんです」
自分で言うのなら、相当自信があるのだろう。最初にいくら必要なのか尋ねると、一〇万円と、案外少ない額だった。
「一〇万円でいいの?」
「あまり大きな額を貸していただくのは胸が痛みますし、私の食費にかかる分をまずは稼ぎたいんです」
「……わかった。明日にでも証券口座開くよ」
エルは礼を言った。少しでもお金を稼いでくれるのは助かる。けれど。
「……エルは、自分のお金が欲しくないの? エルが株でお金を増やしたら、それはエルのお金でもあるんじゃない?」
心に引っかかったことを言うと、エルは口元に指を置き、考えながら答えた。
「私は……あまりお金には興味ありません。お金が増えていく過程を楽しんでいるんです。どこかに行ったりするのに必要になる時があると思いますが、その時は透桜子さんが一緒に行ってくれると言ってくれたので、大丈夫です」
あの言葉を覚えていたのか。エルが消えてしまわないように、どこかへ行ってしまわないように掛けた、自分勝手な言葉。彼は、良いように受け取ってくれていた。
実際は、自分のエゴに気づいていたのかもしれない。けれどエルは、それを指摘しなかった。
誤魔化すように、力を込めて頷く。
「うん。どこに行きたくても、エルについてくよ」
理由はさておき、これは本心だった。

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